図1
*25枚の切手に描かれた合計28名の紹介
1)William Ford Gibson
図2
切手上には「William
Gibson: Cyber space」と記述されている。
ウィリアム・ギブスン(William Ford Gibson, 1948年3月17日生 - )は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州コンウェイ生まれの小説家、SF作家である。
ベトナム戦争の際に、徴兵を拒否してカナダに移住し、しばらく路上生活を経験。
その後、ブリティッシュ・コロンビア大学英文科を卒業。
1984年の初長編「ニューロマンサ」(Neuromancer)で「サイバーパンクSF」というSFの新しいジャンルのけん引役となった。
「サイバースペース」は彼の造語である。
その日本語訳の「電脳空間」は、本作品の翻訳者、黒丸尚による。
サイバーパンク分野でいち早く「コンピュータネットワーク」の可能性に言及し、コンピュータ上のバーチャルリアリティの概念を世に発表した(「バーチャルリアリティ」という言葉自体の発明はしていない)。
2)William Daniel Hillis
図3
切手上に「Danny Hillis Massively(大規模な)parallel processing 」と記述されている。
ヒリスWilliam Daniel Hillis(1956年9月25日生 - )はメーンランド州ボルチモアで生まれたアメリカの発明家、事業家で著述家である。
彼はThinking Machines Corporationという会社の共同創始者である。
この会社は、MITでヒリスによって設計された並列運転を行うスーパーコンピュータであるConnection Machineを開発するための会社であった。
1983年に設立された。1度に1ビットの簡素なプロセッサーを、超立方(hyper-cubic 単に立方形にするのではなく、それを極限状態にするという意味)形状に相互接続して、同時に1000台といったコンピュータを動作させて、機能としては一つの巨大なコンピュータとして動作できるようにした。
3)Stephen Gary Wozniak
図4
切手上には「Steve Wozniak Apple computer」と記述されている。
ステファン・ゲーリー・ウォズニアック(1950年8月11日生 - )はアメリカのコンピュータ・エンジニアである。
スティーブ・ジョブズ、ロン・ウェインらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたApple社の共同設立者の一人である。
Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発した。
1976年6月に、バイトショップにApple Iを、50台納品。
666.66ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかったとされる。
アップルが本格的に売れ始めたのは、その後である。
4)Steven Paul Jobs
図5
切手上には「Steve Jobs Apple computer」と記述がある。
スティーブン・ポール・ジョブズ(1955年2月24日生 - ) はアメリカの実業家である。
スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたアップル社の共同設立者の一人である。
また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続ける人物である。
5)Nolan Bushnell
図6
切手上に「Nolan Bushnell Atari Inc.」と記述されている。
ノーラン・ブッシュネル(1943年2月5日生 - )はアメリカの元ゲームデザイナ兼実業家で、アタリ社の創業者である。
「ビデオゲーム(産業)の父」とよばれる。
以前の日本語表記はローマ字読みで「ノラン」だったが、現在は発音に忠実な「ノーラン」が使われている。
会社名のAtariの語源は日本語の「当たり」であるとされる。
6)John Edward Warnock
図7
切手上に「John Warnock Adobe Inc.」と記載されている。
ジョン・E・ワーノック(1940年10月6日生 - )は、米国の電子工学博士である。
Xeroxパロアルト研究所(PARC)に勤めた後、1982年にチャールズ・ゲシキと共にAdobe Systems社を設立した。
アドビの会長兼最高経営責任者(CEO)を2001年まで勤めた。
Adobe Systems社では、PostScriptをはじめとする革新的な技術を多数、世に送り出し、DTPの分野を中心として幾多の功績を挙げている。
7)Kenneth Thompson,
図8
切手上には「Ken Thompson Unix」と記載されている。
ケネス・トンプソン (1943年生- ) は、UNIXのオリジナルの開発者の一人である。
アメリカ合衆国のルイジアナ州、ニューオリンズで生まれ、カリフォルニア大学バークレイ校で電子工学博士を取得する。
1969年にベル研究所で、デニス・リッチーとともに、UNIXオペレーティングシステムを作成。
また初期のUNIXに標準で搭載されていたエディタedや、B言語を開発したことで知られている。
ちなみにC言語はデニス・リッチーにより作られたが、B言語を元としている。
1995年に発表されたオープンソース版の分散システム用オペレーティングシステムであるPlan 9に携わっており、この開発においてはUTF-8 文字コードの開発を行った。
J.H.コンドンと共に、Belleというチェス・コンピュータの開発に携わり、4〜5(現在6)駒のエンドゲームのエミュレーションプログラムを書いた。
これらのテーブルベースを使うことで、チェスのプログラムは、一度テーブルベースに保存された局面に到達すれば、完璧にゲームを進めることができた。
1983年にはリッチーと共にチューリング賞を受賞。
受賞理由は「オペレーティングシステム、特にUNIXオペレーティングシステムの開発手法の確立に対する貢献」。
2000年12月1日にベル研究所を去り、2006年まではEntrisphere Inc.社に、現在はGoogle社に所属。
8)Alan Field Shugart
図9
切手上には「Al Shugart Seagate
Technology」と記載されている。
アラン・フィールド・シュガート(1930年9月27日生 - 2006年12月12日没)は、ディスクドライブ産業で指導的役割を果たしたコンピュータ工学者である。
彼はディスクドライブの第一人者であったと考えられている。
シュガートはカリフォルニア州ロサンゼルスに生まれ、レッドランド大学で物理工学の学位を取得して卒業した。
彼はカリフォルニア州サンノゼにあるIBM社に就職した。
IBM 305 RAMACの仕事を担当し、その後ディスクストレージ製品の責任者である直接アクセス記憶製品管理者にまで登りつめた。
ディスクストレージ製品は当時IBM社で最も利益のある事業であった。
シュガートらのチームはフロッピーディスクの開発をすることとなった。
シュガートは1973年にシュガートアソシエイツ社を設立したが、後にゼロックス社に買収された。
1979年、彼はフィニス・コナーとともにシュガート・テクノロジ社を設立した。
その後社名はシーゲイト・テクノロジ社に変更された。
シュガートは最高経営責任者として、シーゲイト社を世界最大のディスクドライブとその関連部品の製造会社に成長させた。
1998年7月、シュガートはシーゲイト社を辞職した。
9)Rand Miller、Robyn
Charles Miller
図10
切手上には「Rand + Robyn Miller Myst」と記載されている。
兄(図10の左側)のRand Miller(1959年1月17日生 - )はペンシルバニア州のフィラデルフィアで生まれた。
弟(図10の右側)のRobyn Charles Miller(1966年8月6日生 - )はテキサス州ダラスで生まれた。
パソコンゲームMystの予想以上の成功で有名になった。
兄弟は共にCyan World社の共同創立者となった。
多くの子供向けアドベンチャーゲーム「World」を販売後、パソコンゲーム「Myst」がヒットし、大成功した。
兄弟は1991年にMystの作業に取り掛かり、1993年9月24日にマック用として販売開始した。
このMystは1990年代に最も売れたゲームとなった。
10)Nicholas Negroponte
図11
切手上には「Nicolas Negroponte MIT
Media Lab」と記載されている。
ニコラス・ネグロポンテ(1943年生 — )は、計算機科学者。
マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの創設者・名誉会長として知られる。
アメリカの初代国家情報長官ジョン・ネグロポンテは実兄。
メディアラボでの研究は、学際的な研究に焦点を当てている。
中心技術に直接関わる研究ではなく、技術の応用や、斬新な方法による統合分野を開拓している。
そのためメディアラボのプロジェクトの多くは、芸術的な性格を持っている。
11)William Henry Gates III
図12
切手上には「Bill Gates Microsoft」と記載されている。
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世(1955年10月28日生まれ - )は、アメリカ合衆国の実業家でマイクロソフト社の共同創業者・会長、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団共同会長である。
称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。
パソコンの世界ではマイクロソフトの創業者、その後の活躍で有名であり、その業績などは割愛できる。
12)Sir Arthur Charles Clarke
図13
切手上には「Arthur C. Clark Orbiting
communication satellite」と記載されている。
アーサー・チャールズ・クラーク(1917年12月16日生- 2008年3月19日没)は、 イギリスのサマセット州マインヘッドで生まれたSF作家である。
20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。
第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、レーダの開発に取り組み、教官も務める。
1945年に衛星通信に関する論文を科学雑誌へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる。
スリランカに移住し、スリランカのコロンボで亡くなった。
この所以でスリランカから1999年に発行された切手に、生存中に登場した。
従って、スリランカ1999年の初日カバーに本人のサイン入りのものが存在してもおかしくはない。
13)Herbert Marshall McLuhan
図14
「Marshall Mcluhan
The Mediun is the Message」と切手上に記載されている。
Herbert Marshall McLuhan(1911年7月21日生 - 1980年12月31日没)は、カナダの教育者、哲学者、英文学の教授、通信理論の研究者である。
通信メディア理論の中に、彼の業績は残っている。
「the medium is the message」と「global
village」は彼の提唱した理論(言い回し)である。
1960年の後半から死去までの間は彼は大きな影響を与えた。
「The medium is the message(メディアはメッセージ)」は彼の提唱したフレーズ(言い回し)で、「メディアの形態はメッセージの中に埋め込まれ、メディアがメッセージを如何に知覚させるかによって共生の関係を創造していく、という意味である。(この文章は元の英文が難解で、ちょっと翻訳に自信はない。)
14)Thomas John Watson, Jr
図15
「Thomas Watson Jr. IBM」と切手上に記載されている。
トーマス・ジョン・ワトソン・ジュニア(1914年1月14日生 - 1993年12月31日没)はインターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の2代目社長であり、初代社長トーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John
Watson, Sr.)の長男である。
第二次世界大戦前においては主たるビジネスがパンチ・カード機やタイムレコーダーの開発及びセールス(厳密にはリース)であった同社を、巨額の先行投資を英断することにより当時は黎明期にあったコンピュータ産業の巨人へと成長させた。
IBM社は朝鮮戦争を契機に、軍に納入するためのコンピュータ開発に巨費を投じる。
1952年の社長就任、1956年のCEO就任及び同年の父ワトソン・シニアの死去に伴い全面的に経営の指揮を執り始める。
1960年代には社運を賭けた汎用コンピュータ、System/360の開発に着手し、成功させる。
1970年の心臓発作を契機に体力的な限界を感じ、1971年に引退。
15)Gordon E. Moore
図16
「Gordon Moore Intel
corporation Moore’s Law」と切手上に記載されている。
ゴードン・ムーア(1929年1月3日生 - )は、Intel
Corporation(インテル)の設立者の一人であり、現名誉会長である(2005年現在)。
起業家アーサー・ロックの支援により、ムーアは仲間とともに1957年にフェアチャイルドセミコンダクタ社を設立した。
1961年にはICの大量生産に乗り出し、60年代半ばには世界最大の半導体メーカとなった。しかし会社が大きくなるにつれて人事を巡る問題が生じ、経営陣に強い不満を持っていたノイスと共に会社を去ることになった。
そして1968年7月18日にインテル社を設立した。すぐ8月に従業員第一号として23に紹介するグローヴを採用。
1979年にはインテル会長に就任。
ノイスは副会長、グローヴは社長という体制になった。
1965年に、彼の唱えた「ムーアの法則」は、半導体産業のガイドライン的な役割を果たすようになる。
ムーアの法則は、最小部品コストに関連する集積回路におけるトランジスタの集積密度は、18-24か月ごとに倍になる、という経験則である。
16)James Gosling
図17
「James Gosling JAVA」と切手上に記載がある。
ジェームズ・ゴスリン(1955年5月19日生 - )は1955年にカナダのアルバータ州カルガリー近郊で生まれた。
ソフトウェア技術者であり、サン・マイクロシステムズ社のフェローである。
オブジェクト指向プログラミング言語Javaの生みの親として広く知られている。
17)Sabeer Bhatia、Jack
Smith
図18
「Sabeer Bhatia + Jack Smith Hotmail.com 」と切手上に記載がある。
図18の左側に描かれているSabeer Bhatia(1968年12月30日生 - )は、Hotmailの共同創設者として知られる事業家である。
BhatiaはインドのChandigarhでパンジャブ人.の家で生まれた。
彼の父Baldev Bhatiaはインド陸軍の将校で、後にインド国防省に勤務した。
彼は、アンガローブの高校生活を送った。
電子工学の学位を得るために、1989年にスタンフォード大学に入った。
スタンフォード大学では超低消費電力IC(VLSI)の研究を行った。
Apple社で仕事をしてから、Firepower Systems 社の創業開始に2年間ほど、携わった。
1994年、彼はインターネットの新しいアイディアに関して作業を始め、Apple社時代からの同僚であったJack Smithとチームを組んだ。
WEB上で利用する電子メールに着目した。
新しい方式はHotmailと命名し、注目を集めるために無料とし、必要経費はWEBでの広告収入によるとした。
Draper Fisherベンチャーキャピタル(投資会社)はこのプロジェクトに30万ドルを提供し、サービスは1996年7月4日に始まった。
開始後6ヶ月を超えない間に、利用者は100万人を突破。
この情勢をうけて、WEB上で電子メールサービスを行うサイトが増加した。
1997年12月、Hotmailは4億ドルでマイクロソフト社に売却された。
図18の左側に描かれているJack Smith,はSabeer Bhatiaと共にHotmailの共同創立者である。
SmithはFirePower Systems Inc.で働き、高性能PCに使用されるICの設計を行った。
Apple社でもPCに関する仕事をした。
Smithは1995年にWEB上の電子メールに関して思いつき、Bhrtiaと共に新会社を設立した。
Smithは2007年Proximex社のCEO(最高経営責任者)である。
ここまでWikipediaで判ったことであるが、Smithに関しては検索を継続しても、生年はどこにも紹介されていない。
生まれた場所・国もどこにも紹介されていない。Bhatiaは検索をするとかなりの量の写真が見つかる、しかし、Smithの写真は皆無であった。
Jack Smithは非常に一般的な氏名なので、ネットの検索でも絞りきれない。
従って、図18に紹介した2名の肖像でどちらがSmithでどちらがBhatiaか断定することができなかった。
Proximex社にメールを入れて、問い合わせた結果、Jackは図18の右側の人物と確認することができた。
18)Esther Dyson
図19
「Esther Dyson
Release 2.0」と切手上に記載されている。
Esther Dyson(1951年7月14日生 - )はスイスのチューリッヒで生まれたジャーナリストで、デジタル技術に関する時事解説者、事業家、博愛主義者である。
ロシアはソユーズによる宇宙開発を継続している。
Soyuz TMA-14に関する情報として、Wikipediaによれば、2009年3月26日に打ち上げられ、2009年10月11日に帰還している。
Gennady PadalkaとMichael Barratt(NASA)の宇宙飛行士のほかに、Charles SimonyiとGuy Lalibertéが宇宙旅行者として同乗している。
この同乗者のバックアップクルーの1人がEsther Dysonである。
彼女は技術に関連する様々な著述活動を行っている。
「リリース1・0」はEDventure Holdingsから発行されている月刊の技術・産業ニュースである。
2006年までは、彼女は記事を自ら書きながら、編集を担当している。
「リリース2・0」は彼女の1997年の著作で、インターネットが個々の生活にどのように影響するかを、解説している。
この本の改訂版「リリース2・1」は1998年に発行された。
19)Jerry Chih-Yuan Yang、David Filo
図20
「Jerry Yang + David Filo
Yahoo」と切手上に記載されている。
左にJerry Yang、右にDavid Filoが描かれている。
ジェリー・ヤン(楊致遠 1968年11月6日生 - )は、アメリカの実業家。
Yahooの元最高経営責任者(CEO)である。
ヤンは台湾・台北市に生まれた。
母は英語教師。2歳の時に父を亡くし、1978年に母や弟と共にアメリカのカリフォルニア州サンノゼに渡る。
苦手だった英語をたった3年で熟達し、高校では成績優秀な生徒のみが履修可能な大学レベルの英語のクラスに置かれる。
スタンフォード大学で電気工学を専攻。
1990年に電気工学の理学士号と理学修士号を取得。
1994年4月に博士課程に在籍していた時の友人デビッド・ファイロとウェブディレクトリサービスを作り始める。
はじめは彼らがよく使うウェブサイトのリンク集のようなものだったが、ベンチャーキャピタルに資金と運営ノウハウを提供され、1995年3月に Yahoo! 社を共同設立して事業化した。
1996年に NASDAQ で株式公開し、二人はたちまち資産1億ドル以上の資産家となった。
ヤンは2007年6月、テリー・セメルの CEO辞任に伴い Yahoo! 社の
CEOに暫定的に任命される。
2008年11月17日、CEOを辞任し、以前の役職であるチーフに就任。
ほか、Alibaba.com社、Asian Pacific
Fund社、シスコシステムズ社、Yahoo! JAPAN社 の役員、スタンフォード大学の理事も務めている。
ヤンとファイロは1992年、交換留学プログラムで京都のスタンフォード大学日本センタに1年間滞在したことがある。
ヤンはその時日系アメリカ人の人類学者アキコ・ヤマザキ(山崎晶子)と出会い、1997年に結婚している。
ヤンとファイロが相撲にはまりだしたのもその時からで、それにちなんで Yahoo! が格納されたヤンの研究用ワークステーションは「アケボノ」、検索エンジンが格納されたファイロのコンピュータは「コニシキ」と名付けられた。
デビッド・ファイロ(1966年生 - )は、アメリカの実業家。Yahoo!社のチーフ。
ウィスコンシン州に生まれ、6歳の時にルイジアナ州レイクチャールズ郊外のモスブラフ(Moss Bluff, Louisiana)に移住する。
高校卒業後チュレーン大学(Tulane University)へ奨学金を得て進学し、1988年に計算機工学の理学士号を取得。
1990年にスタンフォード大学で電気工学の理学修士号を取得。
ジェリー・ヤンとはスタンフォード大学の電気工学の博士課程に在籍中、CAD 研究グループで出会う。
気に入ったウェブサイトをリストにして集めていたファイロは、ヤンと共同でウェブサイトを効率よく探し、整理できるソフトウェアを開発する。
1994年1月にリンクが階層的に整理され、検索を可能にした「Jerry's
Guide to the World Wide Web」が完成した。
同年4月にそれを Yahoo!と改め、研究室のコンピュータを使ってウェブディレクトリサービスを開始。
そして1995年3月、スタンフォード大学を休学し、Yahoo! 社を共同設立して正式に事業化した。
2004年7月、ジム・クラークとファイロは母校チュレーン大学へそれぞれ3000万ドルを寄付した。
20)Jeffrey Preston Bezos
図21
「Jeff Bezos Amazon
com」と切手上に紹介がある。
ジェフリー・プレストン・ベゾス(1964年1月12日生 - )は、アメリカの実業家。
Amazon.com の創設者であり社長、最高経営責任者、取締役会長。
ニューメキシコ州アルバカーキにて、10代の母親のもとに生まれる。
電気アラームを使って自分の部屋に弟妹を入れないようにしたり、理科の実習のために両親の車庫を実験室に改造したりと、幼少期から様々な科学的関心を示していたベゾスは、フロリダ州マイアミの高校時代にはコンピュータに興味を持ち始める。
物理学を専攻するために入学したプリンストン大学でも計算機科学と電気工学の分野に専攻を替え、1986年にそれらの学士号を取得した。
大学卒業後ニューヨークで金融アナリストとして勤務した後、1990年にヘッジファンドのD. E. Shaw & Co.に採用され、1992年に上級副社長へ昇進する。
しかし、1994年春にWorld Wide Webの利用率が増加していることに気付き、退社し妻とともにワシントン州シアトルに移住。
1994年までにWWWは政府機関や学術研究者にとどまらず、次第に一般の人々にも知れ渡っていった。
ベゾスにはeコマース事業が将来的に大きなビジネスチャンスになるであろうという先見の明があった。
1994年にインターネット書店のCadabra.com社を開業。
翌1995年7月にはAmazon.com社として正式にスタートし、1997年5月には株式公開を果たす。
ベゾスはインターネット・バブルの成功者の一人となり、1999年にはタイム誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出されている。
21)Robert Elliot Kahn
図22
「Bob Khan TCP-IP 」と切手上に記載がある。
Robert Elliot Kahn(1938年12月23日生 - )はエンジニアである。
Vinton G. Cerfと共に通信制御プロトコール(TCP)とインタネットプロトコール(IP)を発明した。
これらはインターネットの世界で、見えない蔭の部分で、情報の伝達に使用されている。
1972年秋、彼は国際コンピュータ通信会議(International Computer
Communication Conference)で、20台の異なるコンピュータを接続して、ARPANETのデモ(実際の稼働させての説明)を行った。
彼はARPA(現在はDARPA)社にうつり、様々なコンピュータネットワークを接続するTCP-IPの開発を支援した。
22)Jaron Zepel Lanie
図23
「Jaron Lanier Virtual Reality」と切手上に記載されている。
Jaron Zepel Lanier(1960年5月3日生 - )はニューヨーク市で生まれたアメリカのコンピュータ科学者、作曲家、映像芸術家で著作家である。
彼はVirtual Reality(仮想現実感:コンピュータが作った仮想・人工空間に入って, あたかも現実のように体験する技術もしくはそのシステム.)を1980年代の初めに提唱し、普及させた。同時にVPL Research,社を設立した。
この会社はVirtual Realityに関する商品を販売する最初の会社であった。
23)Andrew Stephen Grove
図24
「Andy Grove Intel Corp」と切手上に解説がある。
Andrew Stephen Grove (ハンガリー語ではGróf András István:1936年9月2日生 - )はハンガリー生まれのアメリカの技術者で、実業家である。
彼はインテル社の最初期の従業員で、インテル社の発展と成功に大きく寄与した。
1979年にはインテル社の社長に、1987年にはCEOに、1997年にはCEO兼会長になった。
彼は、インテル社をメモリーチップの製造会社から、マイクロプロセッサーでは世界を支配する会社に成長させた。
24)James H. Clark
図25
「Jim Clark Silicon
Graphic Netscape Corp」と切手上に解説がある。
ジム・クラーク(1944年3月生 - )は、アメリカ合衆国の事業家。
1982年、学生たちとともにシリコングラフィックス(Silicon Graphics, Inc.略称:SGI)を創業した。
シリコングラフィックス(SGI)社は、コンピュータの製造販売を行うアメリカの企業である。
社名にもあるとおりコンピュータグラフィックス(CG)、特に3次元(3D)画像処理の分野を築き上げた企業である。
現在は、科学技術計算分野での大規模計算に特化した大型計算機を中心としたビジネスを展開。
本拠地はカリフォルニア州マウンテンビュー。
クラークは1993年、新しい事業を打ち立てるに際してマーク・アンドリーセンらの作ったブラウザMosaicに魅せられ、すぐに彼にメールを送った。
そして、ジム・クラークとマーク・アンドリーセンらは1994年4月4日にモザイク・コミュニケーションズ社(Mosaic Communications
Corporation)を設立。
同年11月14日にネットスケープコミュニケーションズ社に社名変更した。
1998年、AOLによって買収された。
ネットスケープ社によってインタ-ネットのソフト(ブラウザ)が配布された。
Netscape Navigatorは当初、機能に制限を設けたウェブブラウザとしてを無料配布し、機能制限のない製品版を有料で購入させる戦略をとった。
事業が成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。
この後にWorld Wide Webの利用が爆発的に拡大した。
このことに触発されたマイクロソフト社のビル・ゲイツは、ブラウザ開発に本腰をいれた。
マイクロソフト社は Windows95の発売と同時にInternet
Explorerをリリース。
Internet Explorerは当初はMicrosoft Plus!と呼ばれる有償のWindowsの機能拡張セットの一部であったが、後に単体の無償配布を開始。
Windows 95の次期バージョンであるWindows 98ではInternet Explorerを標準で搭載しており、Windowsの市場占有率の高さから自然とInternet Explorerの利用者も増えていった。
そしてネットスケープは市場から消えてしまった。
25)Robert Melancton Metcalfe
図26
「Bob Metcalfe Ethernet
3COM」と切手上に記載されている。
Robert Melancton Metcalfe(1946年4月7日生 - )は、ニューヨークのブルックリン生まれの電子技師である。
イーサーネットの共同発明者で、3COM社を創立した。
イーサーネットを発明した時、彼はゼロックス社で働いていた。
イーサーネットは比較的近距離間で、コンピュータ相互間を接続するシステムである。
現在の多くのパソコンで有線でインターネットに接続されている方式がこのイーサーネットである。
David Boggsと共にこのイーサーネットを発明した日は、彼らの実験ノートに「1973年5月22日」と、記載されている。
1979年に彼はゼロックス社を去り、3COM社を設立し、コンピュータネットワーク機器の製造を行っている。