*パラオの切手に見る情報時代を夢見た人

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はじめに

現代の情報化時代、こうした時代を築いた人を描く切手がパラオから発行されている。
スコットカタログによれば、1999630日に「20世紀:夢見た人々」として発行された合計25種の人物を描く切手である。
25種が1シートに構成されている。
1(縮尺・低解像度の画像に留める)にそのシート全体を示す。

2以降に、個々の切手を抜き出して紹介するが、肖像を描く切手としては、顔が青色であったり、橙色系であったりして、肖像を描く切手としては良くできたデザインとは言いがたい。
25名の肖像はモノクロ写真で入手したので、カラーの切手に仕上げるために、図1に示すように、同心円状に青色と橙色で着色して、かなり無理をして切手のデザインを行ったのかもしれない。

アーサー・クラークを描く切手が19992月にスリランカから発行されていることを除けば、この25種に描かれた人物を描く切手は他にはまだないので、貴重なものといえる。

こに紹介する人物は現代の人物であり、ほとんどが経歴などを引用できる既発行の人名辞典などにはまだ登場しない。
そこで、生没年や経歴、業績などは、インターネット上に公開されているWikipedia百科辞典(日本語版もしくは英語版)に頼った。

25名を適当なジャンルや活動した年代順に紹介することも不可能ではないが、ここでは図1に示すシート構成に従って、上の段の左から右に、上から2段目の左から右に・・・・という順序とする。

 図1

25枚の切手に描かれた合計28名の紹介

1William Ford Gibson

 図2


切手上には「William Gibson: Cyber space」と記述されている。
ウィリアム・ギブスン(William Ford Gibson, 1948317日生 - )は、アメリカ合衆国サウスカロライナ州コンウェイ生まれの小説家、SF作家である。
ベトナム戦争の際に、徴兵を拒否してカナダに移住し、しばらく路上生活を経験。
その後、ブリティッシュ・コロンビア大学英文科を卒業。

1984
年の初長編「ニューロマンサ」(Neuromancer)で「サイバーパンクSF」というSFの新しいジャンルのけん引役となった。
「サイバースペース」は彼の造語である。
その日本語訳の「電脳空間」は、本作品の翻訳者、黒丸尚による。
サイバーパンク分野でいち早く「コンピュータネットワーク」の可能性に言及し、コンピュータ上のバーチャルリアリティの概念を世に発表した(「バーチャルリアリティ」という言葉自体の発明はしていない)。

2William Daniel Hillis

 図3

切手上に「Danny Hillis  Massively(大規模な)parallel processing 」と記述されている。
ヒリスWilliam Daniel Hillis1956925日生 - )はメーンランド州ボルチモアで生まれたアメリカの発明家、事業家で著述家である。

彼はThinking Machines Corporationという会社の共同創始者である。
この会社は、MITでヒリスによって設計された並列運転を行うスーパーコンピュータであるConnection Machineを開発するための会社であった。
1983
年に設立された。1度に1ビットの簡素なプロセッサーを、超立方(hyper-cubic 単に立方形にするのではなく、それを極限状態にするという意味)形状に相互接続して、同時に1000台といったコンピュータを動作させて、機能としては一つの巨大なコンピュータとして動作できるようにした。

3Stephen Gary Wozniak

 図4

切手上には「Steve Wozniak Apple computer」と記述されている。
ステファン・ゲーリー・ウォズニアック(1950811日生 - )はアメリカのコンピュータ・エンジニアである。
スティーブ・ジョブズ、ロン・ウェインらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたApple社の共同設立者の一人である。
Apple I
およびApple IIをほぼ独力で開発した。
1976
6月に、バイトショップにApple Iを、50台納品。
666.66
ドルの価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかったとされる。
アップルが本格的に売れ始めたのは、その後である。

4Steven Paul Jobs

 図5

切手上には「Steve Jobs Apple computer」と記述がある。
スティーブン・ポール・ジョブズ(1955224日生 - ) はアメリカの実業家である。
スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界で初めて成功を収めたアップル社の共同設立者の一人である。
また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続ける人物である。

5Nolan Bushnell

 図6

切手上に「Nolan Bushnell  Atari Inc.」と記述されている。
ノーラン・ブッシュネル(194325日生 - )はアメリカの元ゲームデザイナ兼実業家で、アタリ社の創業者である。
「ビデオゲーム(産業)の父」とよばれる。
以前の日本語表記はローマ字読みで「ノラン」だったが、現在は発音に忠実な「ノーラン」が使われている。
会社名のAtariの語源は日本語の「当たり」であるとされる。

6John Edward Warnock

 図7

切手上に「John Warnock  Adobe Inc.」と記載されている。
ジョン・E・ワーノック(1940106日生 - )は、米国の電子工学博士である。
Xerox
パロアルト研究所(PARC)に勤めた後、1982年にチャールズ・ゲシキと共にAdobe Systems社を設立した。
アドビの会長兼最高経営責任者(CEO)を2001年まで勤めた。
Adobe Systems
社では、PostScriptをはじめとする革新的な技術を多数、世に送り出し、DTPの分野を中心として幾多の功績を挙げている。

7Kenneth Thompson,

 図8

切手上には「Ken Thompson  Unix」と記載されている。
ケネス・トンプソン (1943年生- ) は、UNIXのオリジナルの開発者の一人である。
アメリカ合衆国のルイジアナ州、ニューオリンズで生まれ、カリフォルニア大学バークレイ校で電子工学博士を取得する。
1969
年にベル研究所で、デニス・リッチーとともに、UNIXオペレーティングシステムを作成。
また初期のUNIXに標準で搭載されていたエディタedや、B言語を開発したことで知られている。
ちなみにC言語はデニス・リッチーにより作られたが、B言語を元としている。

1995
年に発表されたオープンソース版の分散システム用オペレーティングシステムであるPlan 9に携わっており、この開発においてはUTF-8 文字コードの開発を行った。
J.H.
コンドンと共に、Belleというチェス・コンピュータの開発に携わり、45(現在6)駒のエンドゲームのエミュレーションプログラムを書いた。
これらのテーブルベースを使うことで、チェスのプログラムは、一度テーブルベースに保存された局面に到達すれば、完璧にゲームを進めることができた。
1983
年にはリッチーと共にチューリング賞を受賞。
受賞理由は「オペレーティングシステム、特にUNIXオペレーティングシステムの開発手法の確立に対する貢献」。
2000
121日にベル研究所を去り、2006年まではEntrisphere Inc.社に、現在はGoogle社に所属。

8Alan Field Shugart

 図9

切手上には「Al Shugart  Seagate Technology」と記載されている。
アラン・フィールド・シュガート(1930927日生 - 20061212日没)は、ディスクドライブ産業で指導的役割を果たしたコンピュータ工学者である。
彼はディスクドライブの第一人者であったと考えられている。

シュガートはカリフォルニア州ロサンゼルスに生まれ、レッドランド大学で物理工学の学位を取得して卒業した。
彼はカリフォルニア州サンノゼにあるIBM社に就職した。
IBM 305 RAMAC
の仕事を担当し、その後ディスクストレージ製品の責任者である直接アクセス記憶製品管理者にまで登りつめた。
ディスクストレージ製品は当時IBM社で最も利益のある事業であった。
シュガートらのチームはフロッピーディスクの開発をすることとなった。

シュガートは1973年にシュガートアソシエイツ社を設立したが、後にゼロックス社に買収された。
1979
年、彼はフィニス・コナーとともにシュガート・テクノロジ社を設立した。
その後社名はシーゲイト・テクノロジ社に変更された。
シュガートは最高経営責任者として、シーゲイト社を世界最大のディスクドライブとその関連部品の製造会社に成長させた。
1998
7月、シュガートはシーゲイト社を辞職した。

9Rand MillerRobyn Charles Miller

 図10

切手上には「Rand + Robyn Miller  Myst」と記載されている。
兄(図10の左側)のRand Miller1959117日生 - )はペンシルバニア州のフィラデルフィアで生まれた。
弟(図10の右側)のRobyn Charles Miller196686日生 - )はテキサス州ダラスで生まれた。
パソコンゲームMystの予想以上の成功で有名になった。
兄弟は共にCyan World社の共同創立者となった。
多くの子供向けアドベンチャーゲーム「World」を販売後、パソコンゲーム「Myst」がヒットし、大成功した。
兄弟は1991年にMystの作業に取り掛かり、1993924日にマック用として販売開始した。
このMyst1990年代に最も売れたゲームとなった。

10Nicholas Negroponte

 図11

切手上には「Nicolas Negroponte  MIT Media Lab」と記載されている。
ニコラス・ネグロポンテ(1943年生 — )は、計算機科学者。
マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの創設者・名誉会長として知られる。
アメリカの初代国家情報長官ジョン・ネグロポンテは実兄。
メディアラボでの研究は、学際的な研究に焦点を当てている。
中心技術に直接関わる研究ではなく、技術の応用や、斬新な方法による統合分野を開拓している。
そのためメディアラボのプロジェクトの多くは、芸術的な性格を持っている。

11William Henry Gates III

 図12

切手上には「Bill Gates  Microsoft」と記載されている。
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世(19551028日生まれ - )は、アメリカ合衆国の実業家でマイクロソフト社の共同創業者・会長、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団共同会長である。
称号はイギリス女王より名誉騎士(名誉大英勲章ナイト・コマンダー)、立教大学及び早稲田大学より名誉博士を贈られている。
パソコンの世界ではマイクロソフトの創業者、その後の活躍で有名であり、その業績などは割愛できる。

12Sir Arthur Charles Clarke

 図13

切手上には「Arthur C. Clark  Orbiting communication satellite」と記載されている。
アーサー・チャールズ・クラーク(19171216日生- 2008319日没)は、 イギリスのサマセット州マインヘッドで生まれたSF作家である。
20
世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている。

第二次世界大戦中にはイギリス空軍の将校として電波探知法、レーダの開発に取り組み、教官も務める。
1945
年に衛星通信に関する論文を科学雑誌へ寄稿し、現在、通信の基幹となっている衛星通信の構想を初めて科学的に示したとされる。
スリランカに移住し、スリランカのコロンボで亡くなった。
この所以でスリランカから1999年に発行された切手に、生存中に登場した。
従って、スリランカ1999年の初日カバーに本人のサイン入りのものが存在してもおかしくはない。

13Herbert Marshall McLuhan

 図14

Marshall Mcluhan   The Mediun is the Message」と切手上に記載されている。
Herbert Marshall McLuhan
1911721日生 - 19801231日没)は、カナダの教育者、哲学者、英文学の教授、通信理論の研究者である。
通信メディア理論の中に、彼の業績は残っている。

the medium is the message」と「global village」は彼の提唱した理論(言い回し)である。
1960
年の後半から死去までの間は彼は大きな影響を与えた。
The medium is the message(メディアはメッセージ)」は彼の提唱したフレーズ(言い回し)で、「メディアの形態はメッセージの中に埋め込まれ、メディアがメッセージを如何に知覚させるかによって共生の関係を創造していく、という意味である。(この文章は元の英文が難解で、ちょっと翻訳に自信はない。)

14Thomas John Watson, Jr

15

Thomas Watson Jr.  IBM」と切手上に記載されている。
トーマス・ジョン・ワトソン・ジュニア(1914114日生 - 19931231日没)はインターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の2代目社長であり、初代社長トーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson, Sr.)の長男である。
第二次世界大戦前においては主たるビジネスがパンチ・カード機やタイムレコーダーの開発及びセールス(厳密にはリース)であった同社を、巨額の先行投資を英断することにより当時は黎明期にあったコンピュータ産業の巨人へと成長させた。
IBM
社は朝鮮戦争を契機に、軍に納入するためのコンピュータ開発に巨費を投じる。
1952
年の社長就任、1956年のCEO就任及び同年の父ワトソン・シニアの死去に伴い全面的に経営の指揮を執り始める。
1960
年代には社運を賭けた汎用コンピュータ、System/360の開発に着手し、成功させる。
1970
年の心臓発作を契機に体力的な限界を感じ、1971年に引退。

15Gordon E. Moore

 図16

Gordon Moore  Intel corporation  Moore’s Law」と切手上に記載されている。
ゴードン・ムーア(192913日生 - )は、Intel Corporation(インテル)の設立者の一人であり、現名誉会長である(2005年現在)。
起業家アーサー・ロックの支援により、ムーアは仲間とともに1957年にフェアチャイルドセミコンダクタ社を設立した。
1961
年にはICの大量生産に乗り出し、60年代半ばには世界最大の半導体メーカとなった。しかし会社が大きくなるにつれて人事を巡る問題が生じ、経営陣に強い不満を持っていたノイスと共に会社を去ることになった。

そして1968718日にインテル社を設立した。すぐ8月に従業員第一号として23に紹介するグローヴを採用。
1979
年にはインテル会長に就任。
ノイスは副会長、グローヴは社長という体制になった。

1965
年に、彼の唱えた「ムーアの法則」は、半導体産業のガイドライン的な役割を果たすようになる。
ムーアの法則は、最小部品コストに関連する集積回路におけるトランジスタの集積密度は、18-24か月ごとに倍になる、という経験則である。

16James Gosling

 図17

James Gosling  JAVA」と切手上に記載がある。
ジェームズ・ゴスリン(1955519日生 - )は1955年にカナダのアルバータ州カルガリー近郊で生まれた。
ソフトウェア技術者であり、サン・マイクロシステムズ社のフェローである。
オブジェクト指向プログラミング言語Javaの生みの親として広く知られている。

17Sabeer BhatiaJack Smith

 図18

Sabeer Bhatia + Jack Smith  Hotmail.com 」と切手上に記載がある。
18の左側に描かれているSabeer Bhatia19681230日生 - )は、Hotmailの共同創設者として知られる事業家である。
Bhatia
はインドのChandigarhでパンジャブ人.の家で生まれた。
彼の父Baldev Bhatiaはインド陸軍の将校で、後にインド国防省に勤務した。
彼は、アンガローブの高校生活を送った。
電子工学の学位を得るために、1989年にスタンフォード大学に入った。
スタンフォード大学では超低消費電力ICVLSI)の研究を行った。

Apple
社で仕事をしてから、Firepower Systems 社の創業開始に2年間ほど、携わった。
1994
年、彼はインターネットの新しいアイディアに関して作業を始め、Apple社時代からの同僚であったJack Smithとチームを組んだ。
WEB
上で利用する電子メールに着目した。
新しい方式はHotmailと命名し、注目を集めるために無料とし、必要経費はWEBでの広告収入によるとした。
Draper Fisher
ベンチャーキャピタル(投資会社)はこのプロジェクトに30万ドルを提供し、サービスは199674日に始まった。
開始後6ヶ月を超えない間に、利用者は100万人を突破。
この情勢をうけて、WEB上で電子メールサービスを行うサイトが増加した。
1997
12月、Hotmail4億ドルでマイクロソフト社に売却された。

18の左側に描かれているJack Smith,Sabeer Bhatiaと共にHotmailの共同創立者である。
Smith
FirePower Systems Inc.で働き、高性能PCに使用されるICの設計を行った。
Apple
社でもPCに関する仕事をした。
Smith
1995年にWEB上の電子メールに関して思いつき、Bhrtiaと共に新会社を設立した。
Smith
2007Proximex社のCEO(最高経営責任者)である。

ここまでWikipediaで判ったことであるが、Smithに関しては検索を継続しても、生年はどこにも紹介されていない。
生まれた場所・国もどこにも紹介されていない。Bhatiaは検索をするとかなりの量の写真が見つかる、しかし、Smithの写真は皆無であった。
Jack Smith
は非常に一般的な氏名なので、ネットの検索でも絞りきれない。
従って、図18に紹介した2名の肖像でどちらがSmithでどちらがBhatiaか断定することができなかった。
Proximex
社にメールを入れて、問い合わせた結果、Jackは図18の右側の人物と確認することができた。

18Esther Dyson

19

Esther Dyson   Release 2.0」と切手上に記載されている。
Esther Dyson
1951714日生 - )はスイスのチューリッヒで生まれたジャーナリストで、デジタル技術に関する時事解説者、事業家、博愛主義者である。
ロシアはソユーズによる宇宙開発を継続している。
Soyuz TMA-14
に関する情報として、Wikipediaによれば、2009326日に打ち上げられ、20091011日に帰還している。
Gennady Padalka
Michael BarrattNASA)の宇宙飛行士のほかに、Charles SimonyiGuy Lalibertéが宇宙旅行者として同乗している。
この同乗者のバックアップクルーの1人がEsther Dysonである。

彼女は技術に関連する様々な著述活動を行っている。
「リリース10」はEDventure Holdingsから発行されている月刊の技術・産業ニュースである。
2006
年までは、彼女は記事を自ら書きながら、編集を担当している。
「リリース20」は彼女の1997年の著作で、インターネットが個々の生活にどのように影響するかを、解説している。
この本の改訂版「リリース21」は1998年に発行された。

19Jerry Chih-Yuan YangDavid Filo

 図20

Jerry Yang + David Filo  Yahoo」と切手上に記載されている。
左にJerry Yang、右にDavid Filoが描かれている。

ジェリー・ヤン(楊致遠 1968116日生 - )は、アメリカの実業家。
Yahoo
の元最高経営責任者(CEO)である。
ヤンは台湾・台北市に生まれた。
母は英語教師。2歳の時に父を亡くし、1978年に母や弟と共にアメリカのカリフォルニア州サンノゼに渡る。
苦手だった英語をたった3年で熟達し、高校では成績優秀な生徒のみが履修可能な大学レベルの英語のクラスに置かれる。

スタンフォード大学で電気工学を専攻。
1990
年に電気工学の理学士号と理学修士号を取得。
1994
4月に博士課程に在籍していた時の友人デビッド・ファイロとウェブディレクトリサービスを作り始める。
はじめは彼らがよく使うウェブサイトのリンク集のようなものだったが、ベンチャーキャピタルに資金と運営ノウハウを提供され、19953月に Yahoo! 社を共同設立して事業化した。
1996
年に NASDAQ で株式公開し、二人はたちまち資産1億ドル以上の資産家となった。

ヤンは20076月、テリー・セメルの CEO辞任に伴い Yahoo! 社の CEOに暫定的に任命される。
2008
1117日、CEOを辞任し、以前の役職であるチーフに就任。
ほか、Alibaba.com社、Asian Pacific Fund社、シスコシステムズ社、Yahoo! JAPAN社 の役員、スタンフォード大学の理事も務めている。

ヤンとファイロは1992年、交換留学プログラムで京都のスタンフォード大学日本センタに1年間滞在したことがある。
ヤンはその時日系アメリカ人の人類学者アキコ・ヤマザキ(山崎晶子)と出会い、1997年に結婚している。
ヤンとファイロが相撲にはまりだしたのもその時からで、それにちなんで Yahoo! が格納されたヤンの研究用ワークステーションは「アケボノ」、検索エンジンが格納されたファイロのコンピュータは「コニシキ」と名付けられた。

デビッド・ファイロ(1966年生 - )は、アメリカの実業家。Yahoo!社のチーフ。
ウィスコンシン州に生まれ、6歳の時にルイジアナ州レイクチャールズ郊外のモスブラフ(Moss Bluff, Louisiana)に移住する。
高校卒業後チュレーン大学(Tulane University)へ奨学金を得て進学し、1988年に計算機工学の理学士号を取得。
1990
年にスタンフォード大学で電気工学の理学修士号を取得。

ジェリー・ヤンとはスタンフォード大学の電気工学の博士課程に在籍中、CAD 研究グループで出会う。
気に入ったウェブサイトをリストにして集めていたファイロは、ヤンと共同でウェブサイトを効率よく探し、整理できるソフトウェアを開発する。
1994
1月にリンクが階層的に整理され、検索を可能にした「Jerry's Guide to the World Wide Web」が完成した。
同年4月にそれを Yahoo!と改め、研究室のコンピュータを使ってウェブディレクトリサービスを開始。
そして19953月、スタンフォード大学を休学し、Yahoo! 社を共同設立して正式に事業化した。
2004
7月、ジム・クラークとファイロは母校チュレーン大学へそれぞれ3000万ドルを寄付した。

20Jeffrey Preston Bezos

 図21

Jeff Bezos   Amazon com」と切手上に紹介がある。
ジェフリー・プレストン・ベゾス(1964112日生 - )は、アメリカの実業家。
Amazon.com
の創設者であり社長、最高経営責任者、取締役会長。
ニューメキシコ州アルバカーキにて、10代の母親のもとに生まれる。

電気アラームを使って自分の部屋に弟妹を入れないようにしたり、理科の実習のために両親の車庫を実験室に改造したりと、幼少期から様々な科学的関心を示していたベゾスは、フロリダ州マイアミの高校時代にはコンピュータに興味を持ち始める。
物理学を専攻するために入学したプリンストン大学でも計算機科学と電気工学の分野に専攻を替え、1986年にそれらの学士号を取得した。
大学卒業後ニューヨークで金融アナリストとして勤務した後、1990年にヘッジファンドのD. E. Shaw & Co.に採用され、1992年に上級副社長へ昇進する。
しかし、1994年春にWorld Wide Webの利用率が増加していることに気付き、退社し妻とともにワシントン州シアトルに移住。
1994
年までにWWWは政府機関や学術研究者にとどまらず、次第に一般の人々にも知れ渡っていった。
ベゾスにはeコマース事業が将来的に大きなビジネスチャンスになるであろうという先見の明があった。

1994
年にインターネット書店のCadabra.com社を開業。
19957月にはAmazon.com社として正式にスタートし、19975月には株式公開を果たす。
ベゾスはインターネット・バブルの成功者の一人となり、1999年にはタイム誌のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出されている。

21Robert Elliot Kahn

 図22

Bob Khan  TCP-IP 」と切手上に記載がある。
Robert Elliot Kahn
19381223日生 - )はエンジニアである。
Vinton G. Cerf
と共に通信制御プロトコール(TCP)とインタネットプロトコール(IP)を発明した。
これらはインターネットの世界で、見えない蔭の部分で、情報の伝達に使用されている。

1972
年秋、彼は国際コンピュータ通信会議(International Computer Communication Conference)で、20台の異なるコンピュータを接続して、ARPANETのデモ(実際の稼働させての説明)を行った。
彼はARPA(現在はDARPA)社にうつり、様々なコンピュータネットワークを接続するTCP-IPの開発を支援した。


22Jaron Zepel Lanie

 図23

Jaron Lanier Virtual Reality」と切手上に記載されている。

Jaron Zepel Lanier
196053日生 - )はニューヨーク市で生まれたアメリカのコンピュータ科学者、作曲家、映像芸術家で著作家である。
彼はVirtual Reality(仮想現実感:コンピュータが作った仮想・人工空間に入って, あたかも現実のように体験する技術もしくはそのシステム.)を1980年代の初めに提唱し、普及させた。同時にVPL Research,社を設立した。
この会社はVirtual Realityに関する商品を販売する最初の会社であった。

23Andrew Stephen Grove

 図24

Andy Grove  Intel Corp」と切手上に解説がある。
Andrew Stephen Grove
(ハンガリー語ではGróf András István193692日生 - )はハンガリー生まれのアメリカの技術者で、実業家である。
彼はインテル社の最初期の従業員で、インテル社の発展と成功に大きく寄与した。
1979
年にはインテル社の社長に、1987年にはCEOに、1997年にはCEO兼会長になった。
彼は、インテル社をメモリーチップの製造会社から、マイクロプロセッサーでは世界を支配する会社に成長させた。


24James H. Clark

 図25

Jim Clark   Silicon Graphic  Netscape Corp」と切手上に解説がある。
ジム・クラーク(19443月生 - )は、アメリカ合衆国の事業家。
1982
年、学生たちとともにシリコングラフィックス(Silicon Graphics, Inc.略称:SGI)を創業した。
シリコングラフィックス(SGI)社は、コンピュータの製造販売を行うアメリカの企業である。
社名にもあるとおりコンピュータグラフィックス(CG)、特に3次元(3D)画像処理の分野を築き上げた企業である。
現在は、科学技術計算分野での大規模計算に特化した大型計算機を中心としたビジネスを展開。
本拠地はカリフォルニア州マウンテンビュー。

クラークは1993年、新しい事業を打ち立てるに際してマーク・アンドリーセンらの作ったブラウザMosaicに魅せられ、すぐに彼にメールを送った。
そして、ジム・クラークとマーク・アンドリーセンらは199444日にモザイク・コミュニケーションズ社(Mosaic Communications Corporation)を設立。
同年1114日にネットスケープコミュニケーションズ社に社名変更した。
1998
年、AOLによって買収された。

ネットスケープ社によってインタ-ネットのソフト(ブラウザ)が配布された。
Netscape Navigator
は当初、機能に制限を設けたウェブブラウザとしてを無料配布し、機能制限のない製品版を有料で購入させる戦略をとった。
事業が成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。
この後にWorld Wide Webの利用が爆発的に拡大した。

このことに触発されたマイクロソフト社のビル・ゲイツは、ブラウザ開発に本腰をいれた。
マイクロソフト社は Windows95の発売と同時にInternet Explorerをリリース。
Internet Explorer
は当初はMicrosoft Plus!と呼ばれる有償のWindowsの機能拡張セットの一部であったが、後に単体の無償配布を開始。
Windows 95
の次期バージョンであるWindows 98ではInternet Explorerを標準で搭載しており、Windowsの市場占有率の高さから自然とInternet Explorerの利用者も増えていった。
そしてネットスケープは市場から消えてしまった。

25Robert Melancton Metcalfe

 図26

Bob Metcalfe  Ethernet 3COM」と切手上に記載されている。
Robert Melancton Metcalfe
194647日生 - )は、ニューヨークのブルックリン生まれの電子技師である。
イーサーネットの共同発明者で、3COM社を創立した。
イーサーネットを発明した時、彼はゼロックス社で働いていた。

イーサーネットは比較的近距離間で、コンピュータ相互間を接続するシステムである。
現在の多くのパソコンで有線でインターネットに接続されている方式がこのイーサーネットである。
David Boggs
と共にこのイーサーネットを発明した日は、彼らの実験ノートに「1973522日」と、記載されている。
1979
年に彼はゼロックス社を去り、3COM社を設立し、コンピュータネットワーク機器の製造を行っている。