記;2013−5−8
松前重義(まつまえ
しげよし、1901年(明治34)10月24日 - 1991年(平成3)8月25日)は、日本の官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士で、東海大学創立者です。
社会党衆議院議員でもあり、内村鑑三に師事しました。
日ソ交流を進め、世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)会長も務めました。
松前は、熊本県上益城郡嘉島町に生まれました。旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)から官立熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)を経て、東北帝国大学(現・東北大学)工学部電気工学科を卒業。逓信省に高等技官として入省しました。
官僚時代に「無装荷ケーブル」等の画期的な発明をなし、日本の通信技術の進歩に大きく貢献しました。
1937年11月 東北帝国大学工学博士論文の題は「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究」でした。
1940年に大政翼賛会が発足すると総務部長に就任しましたが、まもなく辞任。
1941年、逓信省工務局長に就任。太平洋戦争開始後の1942年には、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。
松前は、当初日米開戦には賛成しましたが、開戦後、日本の生産力ではアメリカに遠く及ばないという現実を知りました。
この結果を海軍軍令部に報告、東條内閣打倒を触れ回り、1944年には勅任官であるにも関わらず、二等兵として召集され、南方戦線に送られました。
南方への渡航は危険極まりないものでしたが、松前の属する部隊はマニラにたどり着き、結果として復員できました。
松前の創設した東海科学専門学校は、戦後、旧制大学の東海大学となり、学制改革に伴い新制大学の東海大学となりました。
戦後、逓信院総裁に就任するが公職追放で辞職。
追放解除後、1952年の総選挙で右派社会党から衆議院議員に初当選(以後6回当選)。
自ら注力した日本初のFM放送局・FM東海(現・エフエム東京)の処遇を巡っては、逓信省の先輩である小林武治郵政相と訴訟合戦を展開しました。
1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織、日本対外文化協会(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに設立し、会長を務めました。
日ソ交流では、ソ連初の野球場モスクワ松前記念スタジアムの建設に尽力するなど、国際交流事業にも投資をおこない、各国の大学から勲章や名誉博士号を受けました。
柔道では、官立熊本高等工業学校で寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に励みました。
1969年、全日本柔道連盟理事に就任。1979年、国際柔道連盟会長に就任。
1983年頃から全日本学生柔道連盟陣営として講道館とやりあいました。
議員時代には社会党議員でありながらも、原子力基本法制定に尽力し、東海大学にも原子力工学科を創設しています。
1991年8月25日死去。享年89才でした。
図1
長々と松前重義の略歴を書いてきましたが、これまでには松前重義に関する郵趣マテリアルは殆どありませんでした。
図1に示す特印が無装荷ケーブルを描く唯一の郵趣マテリアルと言えました。
この特印は満州の新京局(現在は長春市)で使用された「満日連絡電纜(電纜はケーブルの意味の和語です)開通記念」で、1940年9月10日の日付です。
1932年に松前重義は、いわゆる「無装荷ケーブル方式の通信システム」を提案しました。
「無装荷ケーブル」を発明したのではなく、長距離電話を、同時に多数の通話ができるシステムとしての提案です。
真空管による増幅器等を使用することによって、装荷をおこなわないケーブルを利用したほうが、より効率が良く、また遮断周波数が存在しないことから搬送を利用した多重化にも有利であると考察し、「長距離電話回線に無装荷ケーブルを使用せんとする提案」として発表した(しばしば「松前の無装荷ケーブル」と言及されるが、無装荷ケーブルそのもの自体の発明ではなく、無装荷ケーブルを利用して、高性能で経済的な長距離伝送を可能とするシステムの提案であること、減衰や容量による特性をリカバーする増幅器が肝であることが重要)です。
この提案は、当時にあっては、世界の電話通信技術、長距離電話技術の趨勢に真っ向から反対するものでした。
したがって、海外の技術を輸入して運用してきていた日本の多くの通信技術の世界では、容易には認められない提案でした。
この通信方式は、松前重義が発明したというよりは、松前重義の強いリーダーシップによって、日本独自の技術開発が行われたということになります。
1932年に小山-宇都宮間でこれによる多重電話伝送の実験を行い、良好な結果を得ました。
そして、世界初の長距離無装荷ケーブル架設工事が東京-ハルビン間で1935年に開始され1937年に完了しました。
同じく1937年に満州国において、同方式による安東(現 : 丹東市)と奉天(現:瀋陽市)の間の長距離電話通信が成功しています。
無装荷ケーブル通信の考案者として、私の「通信のコレクション」に松前重義に関連するマテリアルを入れたいと思っていましたが、なかなかかないませんでした。
2012年に、テーマティク出品者の会では2013年2月開催のミニペックスでのメインテーマに「松前重義と無装荷ケーブル」を採用することになりました。
私はこの会のメンバーではありませんが、この企画に賛同し、協力をすることになりました。
そして、結果として小型印と3種類のフレーム切手を作ることに成功しました。
フレーム切手に松前重義の肖像も入れたかったのですが、東海大学に資料の提供などを依頼しましたが、結果として肖像は許諾を得ることができませんでした。
記念カバーのカシェには松前の肖像を入れました。
以下に3枚のカバーを示します。
図2は、フレーム切手としては最初の無装荷ケーブルの通信ルートを示す地図を描き、九州にある無装荷通信発祥の地記念碑をカシェとして描いています。
図3は、フレーム切手には無装荷ケーブルを描き、カシェには同じ無装荷ケーブルと松前重義の肖像を添えています。
図4は、フレーム切手とカシェに熊本にある松前重義記念館の建物を描いています。
小型印は、図1に示した無装荷ケーブルの断面図を流用しています。
図2
図3
図4
図5には、安東・奉天間に敷設した無装荷ケーブルの断面図を描いています。この図が今回の小型印と、図1に示した当時の特印の原図になります。4本の線材が一組になり、14組が組み合さっています。上がり回線と下り回線間の干渉を防ぐ為に7組毎にシールドで仕切られています。
図5
図6は、地図を描くフレーム切手の原図になっている地図で、東京から福岡、対馬海峡を海底ケーブルで横断し、朝鮮を縦断、満州までの電話回線ルートが描かれています。
図6
図7は、松前重義が筆頭執筆者になり、様々な実効的な技術開発を担当した篠原登や、橋本元三郎との共著の形で、1932年に最初に通信学会の学術雑誌に投稿した論文の最初の頁です。
この論文は、国会図書館に保存されています。
マイクロフィルム化されて保存されていますので、マイクロフィルムからの複写という形で、国会図書館から入手したものです。
図7