ソニートリニトロン誕生記

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友よ 夢を駆けよ   栄光のためでなく

井深大

その1
産経新聞1997514日掲載
長い受難の幕開き    赤字たれ流す鬼子

企業の消長も人生に似て、ふとした出来事で命運が決まることがある。
創業期のソニーで天才的技術者の名声をほしいままにした木原信敏が、異様に明るい米国型のカラー・ブラウン管を目にしたのは昭和363月、ニューヨークで開かれた全米ラジオ電子ショーの展示会場だった。

ソニーは初めてこの電子ショーに出展していたが、木原は会場にきていた副社長の盛田昭夫を探し出し、手を引くようにして戻ってくると、「見てください、この明るさ、すごいでしょう」と言った。
これがクロマトロンという名の呪われたカラー受信機に、ソ二―の技術陣が取り憑かれる長い受難劇の幕開きであった。

ソニーが出展したのは、後にノーベル賞を受ける江崎玲於奈が発明したエサキ・ダイオードや木原の作ったVTRなどで、初参加とあって井深、盛田の二人がそろってニューヨーク入りしていた。
木原の情報で自らもクロマトロンを見た井深は、この方式で新しいカラーテレビを開発することを決意する。
その年の暮れ、米パラマウント社と契約した井深は「私が全責任を負う、これで行こう」と宣言した。

このとき、電子管開発部の研究員でトランジスタ・テレビの開発をやっていた宮岡千里は、自分の頭上に思いも寄らなかった災難が降りかかってきたのを知った。「すぐクロマトロンにかかれ」という指示である。
それが伝わると、みんなに同情された。
「まあ、しようがないよ。がんばることだな」 そう言う技術者たちもクロマトロンがどれはどの難物であるか、まだ誰も知らなかった。

もともとタロマトロンは採算を度外視して軍事用に開発された方式である。
恐ろしく金を食う半面、技術者たちにとっては悪女のような魅力があった。

世界中のカラーテレビがすべて、光を遮断するシャドーマスクを使っているのに比べ、実に6倍も明るい。
普通は3本の電子銃で色を出すが、クロマトロンは1本である。うまくいけば装置の簡潔な鮮やかな新型テレビが生まれる可能性があった。

井深が決断したのは、外にも理由がある。
ソニーはカラーテレビビで完全に出遅れていた。
東京オリンピックまでに何としても新製品を送り出したかった。
が、技術の革命児を自負するソニーが他社と同じ方式で追随することは絶対にあり得ない。

結果、飛びついたのがクロマトロンだった。
そのとき井深の心のどこかに「ソニーはモルモットだ」と冷笑した評論家、大宅壮一へのこだわりがあったかもしれない。
昭和399月、東京五輪を前に、3年半かけて開発したクロマトロンが完成し、公開される。
しかしこの鬼っ子は、生まれ出るなり膨大な赤字を垂れ流し始めた。
定価198000円、他社並みで売り出したが、実は工場原価は50万円に近く、流通、販売経費を加えると100万円で売ってもペイできるかどうかという代物だった。

井深の頭に、倒産の不吉な文字が滞らめき始めていた。
ふだん姿を見せることのない会議にまで出てきては数字をメモし、慌ただしく出ていく井深の姿を宮岡は何度も目にしている。
これは大変なことになっている、と宮岡は思った、重病患者のいる病室の雰囲気に似て、周りが浮足立っていた。

起死回生をねらうしかない。
追い込まれた土俵際の逆転である。徹夜の続く技術者たちの目は血走ってきていた。


その2:
カラー開発で窮地  「大丈夫いけます」
産経新聞1997515

昭和41年の夏の日の夕方に起きたことを、宮岡は今も心に深く刻んでいる。
土曜日の4時すぎだった。新しいカラーテレビの開発チームの中心にいた宮岡は、社長の井深に呼ばれた。
「君の実験ね、部長から今、聴いたよ」井深は持ち切れない様子で身を乗り出してきた。
「どう、行けそうか。行けるなら、やろうじゃないか」 古い黒縁のメガネをかけた温厚な井深の顔に、焦りと期待がにじんでいた。

「いえ、まだ、少しおもしろいかな、というところです。自信ありません」 宮岡は言った。こんな程度のことで期待を持たれてはかなわない、と思った。
「しかし君、3本のビームを曲げてやれば、とにかく真ん中を通ったんだな、そうだな」 社長の質問は執拗だった。
根掘り葉掘り、食いつくように訊いてくる。それも無理からぬことだった。
赤字を垂れ流すクロマトロンのせいで、会社は追い詰められていた。
もし、新方式のカラーテレビを開発できなかったら、本当にソニーは倒産するかもしれない。

ワラをもつかむ思いで、電子管開発部の部長、吉田進が渡米して視察してきたのが、ポルトカラーという新しい小型テレビだった。
しかし「安かろう 悪かろう」の典型みたいな製品で、「これは駄目です、スジが悪い」と宮岡は首脳陣の前ではっきり言った。
駄目なことは吉田も分かっていたが、せっかくアメリカへ出張してきて、そうとばかり言っていられない。
「じや、こういうのはどうだ」と言い出したのが、1本の電子銃から赤、緑、青の3本の光(ビーム)を横に並べて出すアイデアである。

理屈から言えば、とんでもない話だった。「気は確かですか」と言いたいぐらいだった。
宮岡が実験を始めたのも、「これはできません」ということを証明するためでしかなかった。

ところが、である。電子銃に近い位置に弱いレンズを置いてみると、光が屈折されて3本とも主レンズの真ん中あたりを通り始めた。
通ったあとプリズムでもうー度曲げると、吉田が言い出したとんでもない話が案外うまくいきそうなのである。
もし宮岡のこのアイデアが成功すれば、世界中で使っているシャドーマスクの方式と根本的に違った革命的なカラーテレビが生まれるかもしれない・・・。

井深の執拗な質問は延々と40分も続いていた。
元は天才的発明家である。どっちつかずの答えでは、納得しない。
宮岡は焦っていた。土曜はいつも、メンバーの一員となっている藤沢市民交響楽団の練習に駆けつけなければならなかった。
宮岡は学生時代からオーケストラでチェロを弾いていた。

週日は残業が続き、朝方まで実験が続くこともあったが、土曜日だけは牛後4時半の定時に帰らせてもらっていた。
彼にとってはまたとない息抜きであり、豊かな生活を得る文化活動でもあった。
ジリジリしながら宮岡は時計を見た。練習は六時半から始まる。社長は解放してくれない。
これじゃラチがあかない、と観念した宮岡は、社長に向かって自信ありげな顔を取り繕って言った。
「ま、大丈夫です。行けると思います」
この一言で井深は愁眉を開き、解放された宮岡はオーケストラの練習のため、一目さんに駆け出して行った。

その3:
全社挙げて賭ける   感動のテレビ完成
産経新聞1997517

午前8時30分、宮岡が出社すると、自分の机の横に社長の井深が座っていて、「おはよう」と言った。
また来ている、早いなあ、と思いながら、技術者の宮岡は仕事にかかる。
翌日、同じく8時半に出ていくと、やはり社長がいた。
朝が早いだけなら、多少うっとうしいだけで邪魔にならないのだが、技術者出身の社長は、ときどき宮岡のやっていることに横ヤリを入れた。
そのたびに「話の分かんたいおじさんがまた、もう」と、内心思っていたという宮岡千里(現・ソニー学園湘北短大学長)の話を聴いていて、私はなんとも言えないおかしさに捕らわれていた。

昭和41年のことだから、ソニーはすでにアメリカ、香港、スイスに進出、売り上げは500億円をはるかに超えていた。
その社長が先に出勤し、係長級の若い社員に「また、もう」と煙たがられているのである。
むろん、井深が道楽でやっているのではないことは宮岡も知っていた。
赤字を垂れ流すカラーテレビ、クロマトロンの失敗で井深は窮地に追い詰められていた。
「私が全責任を負う」と宣言したプロジェクトである。
社長自ら開発の第一線に立って、代わる機種を1日も早く完成させなければならなかった。

土曜の夕方、宮岡がオーケストラの練習に早く参加したい一心で「大丈夫です、行けます」と社長に言ってしまった後、月曜になって出勤すると、「あれで行くぞ。全社の方針として決定したからね」
部長にそう告げられて、宮岡は「本当にびびっちゃった」という。
杜の方針となると、何がなんでも成功させなければならない。全社を挙げてそれに賭ける、というのである。

えらいことになった、と悔やんだ。いいかげんなことを言わなかったらよかった、と思ったがすべては後の祭りだった。
宮岡は井深につきまとわれるような格好で、昼となく夜となく開発に没頭することになる。
世界中で誰も考えたことのない、まったく新しい方式のカラーテレビである。
実験で少しでもいい結果が出ると、井深は本当にうれしそうに、子供みたいな笑顔を見せた。純真な人だな、と宮岡は思った。

そして4カ月、約20人の技術スタッフの努力で最初のセットができあがる。
実用化へ向けて、さらに苦しい試行錯誤を続けた技術者たちは、ついに昭和434月、世界初の新方式の受像機を完成させた。

新しいカラーテレビは「トリニトロン」と命名され、報道陣に披露された。
トリニトロンとは赤、緑、青、三位一体(トリニティ)のエレクトロンの意味である。
今、世界中で生産されるブラウン管は年間5000万台に上るが、そのうちソニーのトリニトロンはコンピューター用を含め2500万台を占めている。シェアは実に42%、世界の他企業はソニーの足元にも及ばない。

こうして苦しみ抜いて、やっと完成した後のある日のことを、宮岡は往年の名画を見るように思い出す。
会議室に技術者たちが集まっていたときだった。
社長が突然ふらつくような足取りで入ってきた。その姿に何か異様なものを感じてみんなが静まると、やがて井深が口を開いた。
「君たちのお陰だ…。ほんとに、どうも、ありがとう…」
声がつまり、井深は恥ずかしそうにメガネをはずして、目がしらをぬぐった。