*国分寺にペンシルロケット発祥の地を訪ねて
記:2015−4−16
国分寺にペンシルロケット発祥の地の碑があることは知っており、いつか見に行こうかと思っていた。
最近、新聞とテレビで「国分寺でペンシルロケットに関する展示会が開催中」と知り、どこで開催しているのか、ネットで調べてみた。
国分寺市の本多図書館で開催中、それも、4月11日から始まり、19日の日曜日には終了することが分かった。
隣町ということから、行ってみることにした。
以下は4月16日の探訪記。
1955年4月12日午後3時05分、東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授らによって、国分寺の地からペンシルロケットが打ち上げられました。
打ち上げられたというよりは、水平に発射した実験であった。
発射実験から60周年を迎えたので、宇宙開発発祥の地である国分寺市では、これを記念して「企画展」、「水平発射水ロケット大会」、「記念講演会」を行なうことになった。
企画展では、入口に以下の写真に示すような糸川教授の等身大のパネルで会場入り口を飾ってあった。
1955年頃の国分寺の町の紹介や、日本のロケット開発の概要を示すパネル、現在は水平発射実験を行った場所はなくなっているので、どこで行ったのか古い地図や航空写真からの推定作業を行った寺門さんの研究報告もあった。
そして、メインは、多数の当時のペンシルロケットの実物が展示である。
これらのペンシルロケットは、実験後に後学のために保存しておいたものではなく、実験後に鉄くずとして処分されたが、そうした鉄くずの中から、後年、拾い出されたものであった。
ガラスケースの中に展示されたペンシルロケットをガラス越しに撮影したので綺麗ではないが、参考までにデジカメの写真を以下に示す。
これらのロケットに用いられた推進薬は、火薬で、バズーカ砲に用いる火薬が残っていたので、それを用いたとのこと。
企画展のパンフレットには「終戦後の日本では、航空宇宙開発の研究が可能になったものの、研究開発に必要な資料はおろか、資金も物資もほとんどない状態でした。当時手に入れることができたのは、全長123mm、外形9.5mm、内径2mmというマカロニ状の細い燃料と、直径30mm程度のジュラルミンの丸棒などでした」とある。
ペンシルロケットHalf 30S
ペンシルロケット Half-30S
ペンシルロケットHalf 30S
ペンシルロケットFull 30S ペンシル実験後、高速度カメラ映像の検討用に残された。
ペンシルロケット Full 20D
展示パネルの写真から「水平発射実験中」
ペンシルロケットを製造した富士精密工業の設計図面 <こうした図面が残っているとは驚きである。>
糸川英夫による「ペンシルロケットの計画と飛翔試験結果総合報告」
<これは、この報告書の全文コピーを入手して、読んでみたいものです。: 論文の画像ファイルが公開されており、ダウンロードして読みました。>
映像コーナでは、国分寺での水平発射実験と、それに続く秋田県道川海岸でのロケット打ち上げ実験の、当時の記録映像を編集した20分間のビデオが紹介されていた。
そのビデオの画像の一部を以下に紹介する。
東京大学 生産技術研究所が作成した記録映画。
国分寺での水平発射実験の記録
研究班の班長は糸川英夫ではなく、研究所の所長になっていた。
左に見える細いものが推進薬の火薬でしょう。
この写真が記念碑に採用されている。
後日の道川海岸での実験も報告
ランチャーに設置された打ち上げ前のロケット
水平発射実験は、技術の歴史に関心がある人にはそれだけで十分な展示となるが、一般の人には、それだけでは面白くない。
共催者にJAXAも入っているので、この企画展には小惑星イトカワから微粒子を持ち帰ったはやぶさが登場していた。
はやぶさ関連のパネルが多数あり、持ち帰った微粒子(約50ミクロンの大きさ)の実物を顕微鏡で覗くことができた。
また、はやぶさの帰還カプセルの実物が、内部の電子装置もみることができるように、上下の蓋の部分(合計4点)に分解して、展示してあった。
混んでいない状態で、じっくり見ることができたのは、幸せと言えた。
この帰還カプセルのコーナだけは、一切の撮影が禁止で、2名のガードマンというか説明員がつきっきりであった。
出口には、約10億円とされる宇宙服の実物があり、自由に触れる状態での展示であった。
本多図書館を出て、国分寺駅に戻る途中、街灯にペンシルロケット60周年を祝うペナントが飾ってあった。
国分寺市では町を挙げての祝い事になっている模様。
国分寺駅の北側に、歩いて5分程度のところに、ペンシルロケット発祥の地として「日本の宇宙開発発祥の地の碑」が建っている。
2005年ペンシルロケット水平発射実験から50年を記念したもので、実験が行われた場所は現在早稲田実業学校になっており、早稲田実業の王貞治を記念する碑の隣に、「日本の宇宙開発発祥の地」の碑とて、建てられた。
この場所は, かつて「新中央工業」の工場があった。
「ナンブ銃」などの銃器の製造を手がけていた同社には 銃を試射するためのピットがあった。
東大・生産技術研究所の糸川英夫教授は, ペンシルロケットの開発・実験を行うために このピットを借り受け, 1955(昭和30)年4月に初めて
ロケットの水平発射実験を行った。
ロケット本体の開発・製造は東京・杉並区にある 富士精密工業行われた。(こちらも記念の碑がある。)
以下に写真を示す。碑の表面が鏡面になっていて、周囲の樹木などが反射して写るので、鮮明な写真が取れなかった。
記念碑の全体像
(上) 若き糸川英夫博士
(下) 「燦 ペンシルロケット」の文字と 松本零士氏のイラストとサイン
(左) 「当時の計測方法 電気標的」
(右) 「1955年ペンシルロケット水平発射」
糸川英夫の肖像が見える。
碑文
1955年(昭和30年)4月12日この地において東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授を中心とした若い研究者によって日本の宇宙活動の嚆矢を告げるペンシルロケットの水平発射が行われた。
その50周年を記念してここに記念碑を建立する。
この碑の地下には2005年に子供たちが夢見た「50年後の宇宙ロケット」のデザインや
当時の人々から「50年後の人々へのメッセージ」がタイムカプセルに収められ,埋められている。
ペンシルロケット発射からの100周年にあたる2055年4月吉日に宇宙航空研究開発機構,早稲田実業学校, 国分寺の有志, 立会いのもとで
このタイムカプセルを掘り起こして来し方の100年を偲び, さらにつづく50年へ決意を新たにすることをここに提言する。
2006年4月1日 「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会
28と右上に見える。実験時の高速カメラの映像
松本零士によるプレート
顕彰記念碑の地下にはJAXA(宇宙航空研究開発機構)が全国の小学生・中学生から募集したロケット図案や50年後の人々へのメッセージを松本零士氏案のタイムカプセルに入れて埋設し、50年後に開封することになっている。
碑の裏面
碑文:
この記念碑は「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会の発意に基づき, 国分寺市民並びに 諸団体, 早稲田実業学校関係者並びに校友会, 宇宙航空開発機構(JAXA)関係者,
全国の宇宙開発に関心を寄せられる方々の寄付によって完成しました。
2006年4月1日 「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰会
会長 小川重行
「日本の宇宙開発発祥の地」筆
国分寺市長 星野信夫
ペンシルロケットを記念するフレーム切手が発行されたと聞く。
企画展の会場で売っていれば購入しようかと思っていたが、会場での販売はなかった。
国分寺郵便局は、電車を乗り継いでいかないと行けないので、購入はあきらめた。