1. 計算機械や器具
(1) 計算器具の始まり
数を数えるという行動は、動物心理学者に言わせるとヒト(人間)にのみ許された特権で、長い人類の進化の過程でこの能力を習得してきたもののようです。
古代から数の計算は必要なことで、そのために算術(数学)が発達してきました。
古代に文明が栄えた地域の一つシリア・イラクを流れる大河ユーフラティスの下流西岸の町ワルカで、紀元前5500年頃の神殿から泥土板が出土しました。
この泥土板には溝が切ってあり、小石を乗せて今日のそろばんのように用いたと言われています。
*そろばんはギリシア、ローマ時代に大いに普及
この計算器具はギリシア、ローマ時代に大いに普及しました。
イギリスの大英博物館にはローマ時代の4つ玉そろばんが残っています。
このそろばんは縦10cm、横13cmの手のひらにのるほどの大きさの青銅の盤に、19本の縦溝が切られていて、その各溝には上下に移動できるバーベル状の球がはめ込まれています。
そろばんは引き続き中世ヨーロッパに普及していきました。
しかし、16世紀になるとアラビアの数字が移入され、アラビア数字を用いた筆算が盛んになりました。
図1は16世紀のイギリスの本に掲載されたアラビア数字を用いて筆算をすることの広告宣伝の図で、隣には比較のために従来の計算方法が描かれています。
また、図2には大英博物館にあるそろばんの写真を示します。
そして、18世紀にはそろばんはヨーロッパ全土から消えてしまいました。
図1 アラビア数字による筆算の広告 「Bit by Bit 1984」より
図2:大英博物館に残るそろばん
そろばんは、中国や日本の古来のものであると思われがちですが、そうではないのです。
その証拠の一つにエール(アイルランド)が1988年に発行したアイルランド会計協会創立100年記念郵便切手には、会計に関する機器として最新のパソコンに加えてそろばんも描かれています。
図2A そろばんとパソコンを描く郵便切手 アイルランド発行
*日本ではそろばんが足利末期に現れ、江戸時代に広まった
中国にそろばんが現れるのは元の時代の陶宗儀の書(1366年)で、モンゴル王国の王ジンキスカーン(Chinghis Khan 1167-1227 モンゴル王国の王)のヨーロッパ遠征の土産であるとされています。
一説には漢の時代(紀元前200年)にローマとの通商路で移入されたとも言われています。
図3 ジンギスカーンを描く切手 モンゴル発行
このそろばんが日本に現れたのは足利時代の末期(16世紀)で、中国との交易の結果であるとされています。
最初は商人の中で普及し、徳川幕府がこのそろばんを重視して教育用に使用したことから日本中に広まったのです。
現在でも兵庫県の小野市はそろばんの産地(図4)です。
ここでは400年前の慶長年間(1596-1615年)からそろばん生産が始まっています。
電卓の普及につれてそろばんの生産量は1972年をピークに年々落ちてきていますが、根強い需要があって、全国のそろばん生産の75%を作っています。
図4 小野局の風景印に見えるそろばん
*ゼロの発明と筆算が普及した理由
アラビア算用数字と呼んでいる0から9までの数字を使用した筆算と、漢数字(ローマ数字でも同じことが言えます)を使用した筆算を比べてみましょう。
以下のようにアラビア数字は0があるので、桁の表示が出来て、桁を合わせることが可能となり、筆算ができるようになります。
漢数字ではゼロという概念がないので、筆算は不可能です。
消したり書いたりする黒板とチョークさえあれば筆算は可能です(石板と石筆は15世紀の発明です)。
この理由で、筆算が普及したのです。
(2) 計算器具の必要性
*ダビンチは計算機械の構想をもっていた?
なんでも屋のイタリアのダビンチ(Leonardo da Vinci 1452-1519. イタリアの画家、彫刻家、物理学なども研究:図5)は、計算機械の分野でも歯車式の計算機械の構想を持っていたようです。
1967年に発見された「マドリッドの手稿」の中に13個の歯車からなる装置が描かれています。
10対1の比率を持った桁の繰り上げが可能な計算機械であると考えられていますが、この装置は他の何かの動力伝達装置を構想したものの可能性もあり、定かではありません。
図5 ダビンチの肖像切手 イタリア発行
*ガリレイは計算尺を製作した
天文学に大きな功績を残したイタリアのガリレイ(図6)は1597年に「幾何学的軍事用コンパス」と呼ばれる計算尺を製作しました。
いくつもの目盛りがあって、いろいろな数学的幾何学的な問題を解くのに役立つ計算器具でした。
16世紀末は内外の戦争が激発した時代なので、ガリレイはこの計算コンパスを軍事的な用途、例えば砲丸の重さと大きさの関係を決めたり、濠や城壁の傾きを測定したりするときに有効な計算器具ですと、強調しました。
この計算コンパスは非常に良く売れたので、生産するために一人の職人を雇ったほどで、ガリレイにとっては良い収入源となり、彼の研究資金源でした。
図6:ガリレイを描く切手 イタリア発行
(3) 計算尺
計算のための機械とはいえないかもしれませんが、1594年にエジンバラ(現在はイギリスのスコットランドにある都市)の領主ネーピア(J.
Napier: 1550-1617)は対数を発明し、ネーピアの棒と呼ばれる計算尺を発明しました。
この計算尺は1859年にカーソルのある現在の形の計算尺の形に改良されました。
対数と真数(次項参照)の目盛りを利用して、加減算は出来ませんが、掛算と割算が出来る計算尺は、産業革命から1970年代までの科学・技術のほとんどの計算に使用されました。
図7:ネーピアを描く切手 アメリカ
高層ビルの建築も、鉄道や家庭電気製品も、計算尺を使用して設計が行われ、設計技術者にとって必要欠くべからざる計算器具でした。
竹材で作った計算尺は狂いが少ないということで、日本の逸見製のものは世界的に有名で、1960年代には年間100万本、国内の98%、世界で70%のシェアをもっていました。
寸法を測るノギスとともに計算尺は技術者のシンボルという側面を持っていました。
日本では1982年までは、商工会議所主催の計算尺技能検定試験を行っていたのです。
計算尺も最近の科学計算が可能な電卓の出現によって、とって代わられました。
図8 逸見製計算尺(筆者が昔使用した逸見製の計算尺、保存が悪く、カーソルの部分のガラスがひび割れしています。廃棄して。しまいました。)
7 x1.5 = 10.5の計算をしている例を示す。
下段のD尺の7と、中央部の可動副尺のC1尺1.5にカーソル線を合わせます。
可動副尺のC尺にある1の部分と接する下段のD尺の値から1.05を読み取ります。
桁数は暗算して10倍と判断し、計算結果を10.5とします。
計算尺の場合はこのように桁数は暗算で行います。
図9:計算尺の切手:slide rule ルーマニア発行
(4) 一休み:対数と真数
a=10bとしたときに、bは10を底とするaの対数といい、例えば103 = 1,000あれば1,000の10を底とする対数は3となります。
b=Log10aと書きます。
aや100は普通の数字ですが、対数に対しては真数といいます。
対数を利用すれば乗除計算が加減算に置き換えて計算することができます。
10 x 100 = 1,000を例にとれば、10 x 100 = Log1010 + Log10100という数学の公式にあてはめて計算することになります。
Log1010は対数「1」、Log10100は対数「2」となり、加算して対数「3」となります。
対数「3」の真数は1、000なので、掛算を行う数値を対数に置き換えてから、それらを加算すれば、容易に掛算が可能になります。
2. 計算機械の考案
(1) ドイツのシッカート
天文学の進歩で、多数の複雑な軌道計算などを行う必要が生じ、計算器具では不十分となり、もっと機能の良い計算機械を天文学者は必要とするようになりました。
ドイツのシッカート(Wilhelm Schickard 1592-1635
ドイツのPolymath(多方面にわたる研究者)、天文学者、数学者)は1623年に図10に示す計算機械を発明しています。
この発明のハード面の工夫はシッカートの功績ですが、ソフト面は天文学者ケプラー(Johannes Kepler 1571-1630 ドイツの天文学者 図11)が大きく貢献しています。
ケプラーはシッカートに計算機械を作らせるほどに、計算器械の必要性を感じていたといえます。
図10 シッカートの計算器械(発明350年記念郵便切手:ドイツ1973年発行)
図11 ケプラー
(2) フランスのパスカル、計算機械を発明
フランスではパスカル(Blaise Pascal 1623-1662 フランスの数学者、科学者、哲学者)が計算機械を発明しました。
パスカルは父の徴税業務を手伝っているときに計算を容易にするために計算機械の製作を思い立ちました。
完成は3年後でした(1642年)。
この計算機械は10進の歯車を用いたもので、パリの博物館に残っており、現存する最古の計算機械です。
パスカリーヌの構造を図12に示します。
数字の書かれたダイヤルを回すことによって中のピン歯車が回転して加算を行います。
歯止め機構をうまく使用して桁の繰上げ操作も行なっています。
引き算は補数を使用することで、加算と同じ手順で行うことができるように工夫されていました。
パスカルのこの計算機械は「パスカリーヌ」と呼ばれ、1642年以降10年間に53台という台数で、大量に作られました。
当時のフランスはイギリスと同じで貨幣単位が複雑で、12ドゥニエは1スー、20スーを1リーブル、1リーブル以上は10進で桁上がりとなり、筆算でも大変でした。
パスカルはそうした手間のかかる計算を容易にしようと考えたのでした。
作成されたパスカリーヌはスウェーデンの女王を始め、当時の実業家や財界人等の各界の有力者に寄贈されました。
それでも、パスカルの思いとはかけ離れて、パスカリーヌは評価されませんでした。
1台も売れなかったのです。
その理由として、当時は歯車などを用いた機械を操作するという習慣は日常性に皆無で、しかも重要なお金の計算を機械に任せることができなかったからです。
このパスカルの考えは正しく、その後に完全な商品として生産された機械式や電子式計算機械に組み込まれています。
図12 パスカル
図13 パスカリーヌの構造:「情報世紀の主役たち」2001年より
図14 パルカリーヌ 計算機を使用している様子 片手にメモを取るダチョウの毛のペンを持っている。
図15 パスカルの計算機の外形(レプリカ)
(3) ドイツのライプニッツ、計算機械を改良
このパスカルの計算機械を改良したのがドイツのライプニッツ(Gottfried W. Leibniz 1646-1716 ドイツの哲学者、数学者)でした。
加減算しかできなかったパスカルの計算機械を、速い繰り返し加算によって掛算もできるように改良しました(1694年)。
ライプニッツの功績のもう一つは数学上の功績で、記号論(次項参照)を創設し、その基礎を築いたことです。
この記号論は200年後の1854年にイギリスの数学者ブール(George Boole 1815-1864 イギリスの数学者)によって息を吹き返し、これが基礎となって20世紀のコンピュータ(電子計算機)が作られるようになりました。
図16 ライプニッツの切手 ドイツ発行
図17 ブールを描く切手 オランダ発行
(4) 一休み:記号論
記号論は数学で扱われるような論理的な推論に、記号を使って表す数学の一分野です。
例えば、ある命題A、Bがあるとき、「AまたはB」「AかつB」「Aでない」ということを、「A
and B」、「A or B」、「not A」と行った形で表し、論理に関するいろいろな操作を数学の足し算や掛け算のような演算と同じように扱って研究を行います。
この手法をコンピュータでは、大いに利用します。
(5) 産業革命以降の計算機械、アリスモメータ計算機
産業革命以後は、世界でさまざまな計算機械が発明され、そして製造され、使用されてきました。
その1例をあげると、パリで保険会社を経営していたコルマー(Charles.
X. T. de Colmar 1785-1870)が1820年に発明した「アリスモメータ(Arithmometer)計算機」があります。
始めて大量生産された(量産とは言っても月産1-2台で)加減乗除が計算できる計算機械で、19世紀後半まで欧米各地で使用されました。
コルマーを描く切手は発行されていない。
図18 アリスモメータ計算機
<<アメリカの葉書で当時の計算機学校の案内が書かれたものがあったはずであるが、出てこない。>>
(6) 矢頭良一、自動算盤発明
国産の計算機では、矢頭良一(1878-1908 福岡県出身)の活躍があります。
彼は赤穂義士の中の最年少者であった矢頭右衛門七の末裔でした。
彼の発明した自動算盤は1903年に特許を取得し「パテント・ヤズ・アリスモメートル」として発売されました。
この方式は日本人ならではの独創的な発想によるもので、算盤の二・五進法を手回しの機械計算機に仕立て上げたものでした。
その後、丸善や日本計算機など数社から手回しの機械会計算機が発売されています。
1923年から発売されたタイガー計算機は手回し計算機の代名詞になるほどに普及しました。
1960年後半に電子式卓上計算機(電卓)が登場するまでに、銀行や科学計算などに大いに利用されました。
図19 矢頭良一の加算機 :「テレビゲームとデジタル科学」科学博物館発行2004年より
(7) NCR社の始まり
現在商店などで見られる金銭登録器は1884年、アメリカの実業家パターソン(John. H. Patterson
1844-1922 アメリカの実業家)によって販売推進され、普及し始めたものです。
商品とサービスの正確な記録が困難で、販売に苦労していたパターソンは機械式レジスタ(金銭登録機)を2台購入してその経営的な効果に注目しました。
1884年12月、そのレジスタを製造していた会社ナショナル・マニュファクチャリング・カンパニを買い取り、すぐに”The National Cash Register”と名前を変更し、金銭登録機を大々的な全国販売を行いました。
これが現在のNCR社の始まりです。
図20 ポルトガルのNCR社のメータースタンプ 1971年
計算機械ではありませんが、フランスの発明家ジャカール(Joseph M. Jacquard 1752-1834 フランスの発明家)は、複雑な工程を持ち、しかも操作が簡単な「ジャカール織機」を1799年に発明しました。
この織機に織物の図柄を織り込む装置の入力用としてパンチ(穿孔)カードを利用したのです。
これが穿孔カード利用の始まりでした。
ジャカール織機は絹織物工業に技術的な革命をもたらし、1806年にこの織機の権利は国家に移されました。
それだけ国の産業に大きな影響を与える発明でした。
図21 ジャカールを描くフランスの切手
3. 国勢調査を契機として、コンピュータが発展した
膨大なデータを正確に、かつ手早く処理する必要がある業務の一つに、各国で行われている国勢調査があります。
この業務処理も現在ではコンピュータが活躍しています。
*ホリレスが始めた会社はIBM社
アメリカ政府が行う国勢調査のデータ処理を効率に行うために、1890年アメリカのホリレス(Herman. H.
Hollarith1860-1929. アメリカの技術者)が考案したのが、パンチカード(穿孔カード。紙(カード)に特定の約束によって穿孔されたもの、IBMカードとも呼ばれています)を利用した計算機(計数システム)です。
パンチカードはジャガールによって既に利用され始めていました。
手計算による膨大なデータ計数での作業量に限界を感じたアメリカ国勢調査局は1889年に国勢調査用機械のコンテストを行いました。これに応募したホリレスは最優秀賞を獲得しました。
この機械はホリレス電動整表器システムといわれました。
図22は1890年に使用されたパンチカードで、図23はそうした計算システムを使用して計算作業を行なっている場面です。
ホリレスが始めた会社が後にIBM社(International
Business Machine)となっています。
ホリレスシステムは、日本には1925年に輸入され、日本陶器の事務所に設置されました。
パンチカードシステムは、穿孔されたカードを分類して、数を集計するシステムで、現在使用されているコンピュータのルーツの一つです。
図22 1890年の国勢調査で使用されたパンチカード Truesdell 1965より引用
図23 1890年の国勢調査での計算作業 Truesdell 1965より引用
国勢調査用だけではなく、軍用品の発注や弾道計算など次第に活躍の分野が広まり、第2次世界大戦後1948年に、SSEC(Selective
Sequence Calculator:順序選択型電子計算機)としてIBM社が完成させたものは、穿孔機、穿孔検査機、分類機、照合機、整表機などからなる大きいパンチカードシステムでした。
一部に電子回路が採用され、乗除算は20ミリ秒で行うことができました。
こうした計算機への注力はアメリカの事務機の売り上げの推移をみても、IBMの成長は明らかです(図24)。
図24 アメリカの事務機製造会社の売り上げの推移
ホリレスの切手はありませんが、図25に示すIBMの中興の祖と言われたワトソン(トーマス・ジョン・ワトソン・シニアThomas
John Watson, Sr. 1874年2月17日 - 1956年6月19日)は、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)社の初代社長です。
厳密には同社の「創立者」ではありませんが、1914年から1956年までIBMのトップとして同社を世界的大企業に育て上げた人物であり、実質上のIBMの創立者とされることが多い。
IBM独自の経営スタイルと企業文化を生み出し、パンチカードを使ったタビュレーティングマシンを主力として、非常に効率的な販売組織へと成長させました。
たたき上げた一流の実業家であり、生前は世界一の富豪として知られ、その死に際しては「世界一偉大なセールスマン」と賞賛されました。
図25 G. W. Watsonを描く切手
日本にもIBMの子会社があります。
図26は東京の箱崎にあるIBM箱崎ビルを描く風景印です。
図26
*レミントンランド社のUNIVAC
第2次世界大戦後、1951年に完成した事務機器製造会社レミントンランド社(Remington
Rand 1927年に設立された事務機器製造会社)のコンピュータUNIVAC-1は、その1号機がアメリカ国勢調査局に納入されました。
その他にUSステール、メトロポリタン生命保険会社、レミントンランド本社などに設置されました。
ユニバック(UNIVAC)とはUniversal
Automatic Computer(万能自動計算機)を商標化したもので、入出力装置に磁気テープ装置を用い、メモリには水銀遅延管方式が用いられていました。
この水銀遅延管方式は、超音波は水銀中を伝わるのに時間がかかるので、一方から信号を入力しても出力は一定の時間がかかってから出てきます。
出てきた出力を再度入力します。
これを繰返せば、信号を記憶することができる、という原理を利用したものです。
ただし電源を切ってしまえば記憶は残りません。
このような方法でデータを記憶させることが当時は行われていました。
図27 コンピュータUNIVAC-1 2000年発行ルーマニアの絵入り官製葉書
4.コンピュータの考案
計算機(Calculator)とコンピュータ(Computer:Electric Data Processing Machine 情報処理装置)は完全に同一視することはできませんが、計算機械の歴史無しに現在のコンピュータはありえません。
1940年より前では「コンピュータ」は「手回しの計算機を備えた書記」という意味でもありました。
彼らはそれでもって賃金、保険掛金表、天文学上の予報のために計算業務を行っていました。
これらの計算は煩雑で手間のかかる仕事でした。
1935年から1945年にかけてエレクトロニクスを利用した「自動的計算機械」が次第に発達し、ある特定の問題に対する、より高速な計算装置が現れるようになりました。
1945年になって多様な用途に使用できる汎用自動計算機を設計しようという関心が高まりました。
計算機械に適当な「プログラム」を与え、それを変更さえすれば、どんな目的に対しても無制限に自由に計算を行うことができるであろう、というものでした。
これが「汎用コンピュータ」であり、「プログラム内臓式デジタルコンピュータ」でした。
デジタルという言われは、計算の途中で得られる解によって計算のその後の進展は自動的に変更されるので、0と1の2進数的に判定を行う必要があり、必然的にコンピュータはデジタルで制御されることになるからです。
現在のコンピュータのように記憶装置(メモリ)をもった大形プログラム式計算機の前身は、1812年のイギリスのバベジ(Charles Babbage 1792-1871 イギリスの数学者)にその試行錯誤が始まっています。
バベジのコンピュータは当時の天文学などが要求する計算のために高次式の関数を作ることを目的としていました。
イギリス政府の援助もあり、1823年に着手し、1833年までかって10進6桁の計算が出来るものを作りました。
その機構が高次の差分を求め、集めた中間差分を関数それ自体に戻して多項式を解く方法であったので、階差機関(Difference
Engine)と呼んでいました。
さらに6次の多項式を10進20桁で解く解析機関(Analysis Engine)の製作に取りかかったのですが、1842年に政府の援助が打ち切られたために、成功を見ずに終わっています。
バベジの作った機械の一部、ノートや図面などはイギリスの科学博物館に保存されています。バ
ベジの考えは当時の物作り技術に先行しすぎたために、成功を見なかったといえます。
図.28 バベジ 頭の中は数字でいっぱい 1991年発行
5.暗号の解読にコンピュータを利用した
第2次世界大戦において、ドイツには非常に解読の困難な暗号機械、可搬型のエニグマとさらに高度なゲハイムシュライバーシステムがありました。
エニグマは通常の暗号通信に用いられ、ゲハイムシュライバーは最高級の秘密を必要とする戦略的な通信文に用いられました。
これらの暗号システムは1文字ごとに暗号キーを変化させることができるので、ドイツ側はこの暗号システムは相手国には決して解読されないと自信を持っていました。
*暗号の解読で連合軍はドイツのUボートを撃破した
イギリスではこの暗号解読に成功しました。
連合国側が撃破に成功したドイツ軍のUボートからエニグマ暗号器を引き上げ、それらを基にエニグマ暗号解読器を作りました。
エニグマの場合は、暗号キーは1021(1,000
x 10億 x 10億)の組み合わせが可能でしたので、傍受した無線通信の原文から意味のある単語や文を得るには、無限の試行錯誤が必要となりました。
試行錯誤の回数を少なくするための方策を実施したのは、イギリスの数学者チューリング(Alan. M.
Turing 1912-1954 イギリスの数学者)でした。
それでも数十台の電気‐機械式のリレー機械や数百人の海軍女性要員のオペレータがエニグマ暗号解読のために24時間体制で働いました。
このエニグマの暗号回析にはポーランドの協力もあったようです。
それゆえに、図29に示すポーランドの切手、1983年発行、エニグマ暗号解析機50年の切手も発行されています。
図30はスペインのフレーム切手ですが、エニグマとチューリングのコンピュータを描いています。
図31は、2000年St. Vincent発行のチューリンゲンを描く切手です。
図29:1983発行50th anniversary Engima
decoding machine
図30:2015年発
図31:スペインのフレーム切手 エニグマとチューリングのコンピュータを描く。
図32:St Vincent
Grenadines 2000年発行
ゲハイムシュライバーはさらに複雑であったので、1943年1月にイギリスの電気技術者フラワース(Tommy. H. Flowers
1905-1998 イギリスの電気技術者)の指揮するチームがコロッサス(COLOSSUS:巨像という意味)という計算機を建設しました。
作りました、と言うよりは、「建設した」という表現が正しいようです。
組み立というよりは「建設」という表現が当時としては正しい表現でした。
そして同年12月に稼働を始めました。このコロッサスは1,500本の真空管を用いました。
毎秒5,000文字の速さで、暗号化された原文を入力し、意味のある文章が得られるまで操作を何度も何度も繰返しました。
1944年にはゲハイムシュライバーの進歩にあわせて、COLOSSUS MarkUを設計しました。
これは真空管2,500本を使用した計算機で、1944年6月には最初の10台が稼働し始めています。
COLOSSUS MarkUはプログラム内蔵式記憶装置の設置以外は、近代の計算機が有する全ての機能を備えていました。
図33: 2015年イギリス Colossusを描く切手
ドイツの「破れない」ゲハイムシュライバー暗号システムを解読できたので、連合国軍はドイツに対して戦略的に優位になり、ドイツの誇る潜水艦Uボートなどを撃破できるようになりました。
ドイツ側では暗号が解読されているとは思わず、イギリス側のレーダ探査性能が向上したためと思っていました。
このコロッサス計算機は最初のプログラム内蔵計算機ですが、軍事目的であり、詳細情報が秘匿されていたので、最初のプログラム内蔵計算機の発明者の名誉は、7項に述べるノイマンに譲っています。
6.コンピュータの実現
バベジから100年後、1943年アメリカのハーバード大学のアイケン(H. Aiken)によってバベジの夢は実現しました。
アイケンはIBM社とともにASCC(Automatic
Sequence Controlled Calculator:自動シーケンス制御計算機)をつくり、大学に設置しました。
その後改良を加えて、1946年には世界最大とうたわれるようになりました。
電磁リレーと歯車を組み合わせたもので、132ワードの記憶ができ、76万個の部品を用いていました。
加減算は各3秒、除算は60秒もかかるもので、高さ2.8m、横幅は15mもあり、23桁の精度があり、もっぱら戦時中の弾道計算に利用されました。
第2次世界大戦のさなか、軍からの要望で方位決定とロケット弾の飛跡の決定を即時に正確に計算する方法として、電子管(真空管)を用いた計算機の開発が計画されました。
アメリカのペンシルベニア大学のエッカート(John. P. Eckert Jr1919-1995 アメリカの技術者)とモークリー(John W. Mauchly 1907-1980 アメリカの物理学者)によって、1946年に完成しましたが、ときは第2次世界大戦が終わっていました。
エニアック(ENIAC:Electronical
Numerical Integrator and Calculator)と呼んだこの計算機は18,800本の真空管や1,500個のリレーを用いていて、消費電力は150kWという大形のものでした。
図34:マダガスカル発行
図35:アメリカ1996年発行、ENIAC50年を記念した切手
エニアックには加減算はほぼ0.5ミリ秒、乗除算には3ミリ秒くらいの演算能力があり、論理用にゲート回路を、数百個の記憶素子にフリップフロップ回路を用い、プログラムにはプラグによる配線の変更で対応しました。
当時、計算のベテラン100人が1年もかかる計算を、エニアックは2週間で答えを出すと誇っていました。
この2週間のうち、実際に計算機が稼働するのは2時間で、残りは操作調整と結果の検査用に当てられました。
図36: エニアックに使用されて真空管28本のユニット 「bit by bit 1984」より
7.プログラム内臓のコンピュータへ
(1) ノイマンの提唱
次の電子計算機の進歩はプログラムを内蔵させる方法の開発でした。
これは、ハンガリーの生まれでアメリカに移住した数学者ノイマン(Johann L. von Neumann 1903-1957 ハンガリーに生まれアメリカに移住、数学者、1928年ゲームの理論を発表)によって1945年6月に発表されました。
ノイマン以外にもプログラム内蔵した計算機の考えをもっていた研究者がいたのですが、第2次世界大戦中の軍事技術に関連した研究であったので、発表できなかっただけという説があります。
*ノイマン型コンピュータの完成
このプログラム内臓コンピュータはエドバック(EDVAC:(Electronic Discrete Variable
Computer)として1945年に着手しました。
ノイマンと設計開発を担当したエッカートおよびモークリーが対立し、1947年春にエッカートとモークリーの2名がプロジェクトから抜けたために計画は大きく遅れてしまいました。
エドバックが完成したのは1950年でした。
抜けた二人はイギリスでエドサック(EDSAC:Electronic
delayed Storage Automatic Computer)計画に参加し、初のプログラム内蔵のノイマン型コンピュータを1949年に完成させ、ノイマン型コンピュータの提唱者自身が推進した計画を追い越してしまいました。
エドサックは約3,000本の真空管から構成されており、1949年5月に始動し、1950年初頭から1958年7月に運転停止するまでの間、規則的に計算サービスを行いました。
これは本格的プログラム内蔵コンピュータの運用サービスとしては世界最初のものでした。
図37: ノイマン
図38:•Hungary1992発行 ノイマン
図39:ハンガリー2003発行 ノイマン
(2) 第1世代コンピュータから第3世代コンピュータへ
*第1世代コンピュータは?
記憶素子(メモリ)としての磁気コアメモリは1949年に発明されました。
1951年にはチタン酸バリウム(BaTiO3)を用いたドラムに読み取りヘッド、書き込みヘッド、消去ヘッドを用いたものが出現しました。
前述の図27にあるコンピュータユニバック‐1には磁気ドラムが採用されています。
これらの記憶素子と真空管を用いた電子計算機は1950年代に多数製造され、実用にともされました。
これらを第1世代の電子計算機といいます。
これらのコンピュータの多くは、コンピュータ室とかEDP(Electric Data Processing情報処理)室と呼ばれる専用の部屋に設置されました。
その部屋には空調設備が完備していましたが、それは室内の計算機操作者のためではなく、コンピュータから出る熱の処理が主目的でした。
専任の操作者によって計算事務が執り行われました。
大学などには計算機センタが設けられて、一元的にコンピュータの利用が図られました。
*第2世代のコンピュータ
第2世代の電子計算機は、真空管の代わりにトランジスタを用いたもので、1960-1965年に実用化しています。
*第3世代のコンピュータ
トランジスタから集積回路(IC)を用いたものが第3世代の電子計算機です。
これらのコンピュータは、IBM社、ユニバック社、ブル社、GE社、バローズ社、ICL社、NCR社など,日本では日立、富士通、日本電気、東芝、沖電気などから出荷されました。
1967年6月末の調査では、世界各国で使用されていた電子計算機の台数はアメリカ32,500台、西ドイツ3,300台、日本2,700台、イギリス2,200台、フランス1,950台、ソ連1,400台でした。
図40にはそうした中の1台、名古屋大学大型計算機センタです。
1971年4月に全国の大学の教官やその他の研究者のための共同利用施設として設置された7ヶ所の大型計算機センタの一つです。
図40:名古屋大学大型計算機センタで使用していた郵便計器納スタンプ。1979年の押印。左に計算センタの広告を描く。
コラム 計算機の構成
コンピュータは大きく分けて5つの装置から構成されます。
コンピュータに必要なプログラムやデータを入れるなどの入力装置(紙テープ、穿孔紙カード、磁気テープ、文字読み取り装置など)、コンピュータの演算し処理した結果を出すための出力装置(プリンタ、穿孔紙カード、磁気テープなど))、計算に必要なデータや結果と中間データを一時的に記憶する記憶装置(メモリ)、実際の演算を行う中央演算装置(CPUという)、それらを順序良く機能させるための制御装置でした。
初期の電子計算機にあっては、記憶装置の部分をどうするかが一つの課題でした。
*閑話休題:ノイマン型コンピュータとその限界
ノイマンが唱えたプログラム内蔵式や逐次処理方式を採用したコンピュータのことをノイマン型コンピュータといいます。
現在のほとんどのコンピュータはこの方式ですが、多くの場合はノイマン型であることを意識していません。
世界最初のコンピュータ「エニアック」は異なる計算を行うためには配線を繋ぎ変えなければならなかったので、煩雑でした。
これを改良すべく提案が行われ、開発されたのがノイマン型です。
このノイマン型コンピュータにも欠点というか限界があります。
いかに計算スピードを高速にしても、一度に(一回に)行われる計算や命令は一つだけです。
そこで、計算の高速化を計るためには、ノイマン型ではないコンピュータの研究も行われており、それを非ノイマン型コンピュータといいます。
同時に複数の計算や命令を実行することができるようにするのです。
*コンピュータの判定は正しいという風潮
コンピュータを使った手書きサインによる性格判断ということモ行われました。
アメリカで1964年に開催されたニューヨーク万国博覧会会場で、ポリバック(Polyvac)というザイトロニクス(Zytronics)社の特許に基づく性格判断テストが行われました。
コンピュータによる判定は、判定者の私心が入らず、正確で、正しいという風潮を生み出した一例です。
判定結果はパンチカードで打ち出され、「フランクである」、「友情深い」、「正確」、「論理的」といった正確特性と判定されました。
*コンピュータにはグラフィック描画は苦手
大型の電子計算機でも苦手な分野がありました。0と1を利用した計数や計算は高速で正確にできるのですが、グラフィックな画像を描くことは大変苦手でした。
1970年に大阪万国博覧会が開催されました。
この万博で富士通はコンピュータFACOM270-30を用いてグラフィックスを描かせる展示を行いました。
当時としてはコンピュータといえどもこうしたグラフィックスを描かせることは大変なことでした。
万博会場ではコンピュータが絵を書くということで、大きな人気を得ました。
図42にそのグラフィックスを示します。
このFACOM270-30は、科学技術計算やプロセス制御用の国産ICを使用した第3世代のコンピュータでした。
図42:1970年に開催された大阪万国博覧会でのコンピュータグラフィックス展示。
(ルーマニア1970年発行万博記念郵便切手小型シート)
8. 電卓の時代
(1) 電卓の始まり
大型の計算機(コンピュータ)が実用化されても、それを個人で使用することは夢のまた夢でした。
しかし、電子部品は急速に小型化し、大量生産が行われ、コストが安くなり、集積化も行われるようになってきていました。
1960年代の初頭にイギリスのサムロックコンピュータ社からアニータ(ANITA)というMT真空管を使用した電子卓上計算機(電卓)が発売されました。
真空管には大きさで大別したときに3種類に分けることができました。
最も小柄なミニチュアタイプがMT真空管と呼ばれ、小型であるという理由で、電卓に採用されました。
(2) シャープの全トランジスタ電卓の出現
1964年に早川電機工業(現在はシャープと改称)は、世界最初の全トランジスタの電子卓上計算機コンペットCA-10Aを発売し、業界に大きな衝撃を与えました。
このCA-10Aは、重さが25kg、幅は42cm、奥行きは44cm、高さが25cmと必ずしも小さいとはいえませんでした。
そして、価格も535,000円とけっして安くはありませんでした。
当時売られていた電動計算機(加算機)は重さが20kg程度、価格も50万円程度でした。
この当時、購入に当たって部長決済が可能な金額が最大50万円でした。
定価が535,000円で、多少の値引きがあって実際の購入価格が50万円であれば、買いやすい値段でした。
使用したトランジスタは合計530個、ゲルマニウムトランジスタであったので、温度変化に弱く、熱で特性が変化し、時間の経過とともに特性が劣化すると言う難点もありました。
品質を安定させた通信・工業用のトランジスタは高価なので、53万円の電卓には採用することができず、比較的安価なラジオ受信機用のトランジスタを購入し、工場でエージングと呼ばれる安定化作業と選別作業を行いながら電卓に組み込んでいきました。
図43:補足資料4 シャープの電子卓上計算機
アメリカのフライデン(Friden)社という第2次世界大戦の前から機械的な加算器を製造していた会社が、1964年に、シャープと同じく全トランジスタの電子卓上計算機を発売しました。
Friden EC130でという電卓です。
この電卓は一般家庭用の自動車の価格に相当する価格でした。
アメリカで製造されたこのフライデンの電卓は世界各国に代理店を持ち、販売されました。
図44はフランス語で、パリの代理店が使用した広告です。
電卓はその後、いろいろなモデルが各社で開発され、発売されました。
機能の改良だけではなく、価格の競争も激しくなり、過当競争の側面を呈した時代もあります。
そして最近ではカード電卓まで可能になっています。
図44 Friden EC130の電卓の広告を入れた1967年のフランスの郵便料金計器納スタンプ
9.電卓から生まれたマイクロプロセッサ
計算などを行う中央演算素子CPUと呼ばれる部品はトランジスタ製からLSI(Large Scale Integrated Circuit:大規模集積回路:1000個から10万個、それ以上のトランジスタや関連する部品を1個のシリコン基盤の上に集積したIC)へ、そして急速に集積化が進み、電卓開発競争も始まりました。
電卓用LSIの開発の過程で、中央演算装置などの機能を一つの半導体集積回路にまとめたマイクロプロセッサと呼ばれるものが登場するようになりました。
日本計算機販売(通称ビジコン)は8個のLSIからなる電卓を開発しようとし、提携していたインテル社(1968年に設立されたベンチャー企業、現在はパソコンのCPUの開発と製造の世界トップ企業)にLSIを発注しました。
インテル社は1968年に設立されたばかりのベンチャー企業で、当時は200人程度の従業員数の会社でした。
現在ではパソコンのCPUの世界トップ企業になっています。
インテル社で設計を行ってみると8個のLSIでは間に合わず、12個のLSIになることが分かり、コスト的にも高くなることがわかりました。
そこで、インテル社の技術者テッド・ホフ(Marcian E. Hoff
1937- アメリカの技術者)はそれらを一括してマイクロコンプロセッサという構想でまとめることを提案し、ビジコンの技術者島正利(1943- 静岡県出身 技術者)とともに開発にあたりました。
こうして出来たのがインテルのマイクロプロセッサ4004で、世界最初にマイクロプロセッサを組み込んだ電卓が1971年に発売されました。
このマイクロプロセッサ4004は2,300個のトランジスタを集積した物でした。
その後、2年後ごとに2倍になるといわれるほどに集積されるトランジスタの数は増加し、マイクロプロセッサはマイクロコンピュータ(マイコン)とも呼ばれるようになっていきました。
10.マイクロプロセッサからマイコン・パソコンの時代へ
(1) インテルの活躍でパソコンの夜明け
インテル社は4ビットマイクロプロセッサ4004に引き続き、1972年4月に8ビットで動くマイクロプロセッサ8008を発表しました。
これはミニコンピュータを動かすには十分な性能を持っていました。
そして、これがパーソナルコンピュータ(パソコン)の夜明けになったのです。
数年間はインテル社が世界で唯一のマイクロプロセッサの供給会社であり、売上は急上昇しました。
1983年末にはインテル社は21,500人の従業員を抱え、売上11億ドルという巨大企業に成長しました。
(2) IBMがパソコンへ参入した
1972年から、IBM社がパソコンに比較的遅れて参入した1981年までは、パソコンの花が咲き始めた時期でした。
アメリカのみならず、日本でも、世界各国でパソコンは普及し始めました。
これらの全てを語ることはできませんので、簡単に代表例を年表として掲げます。
1972年から1981年までのマイコン発達史:
○:マイクロプロセッサの歴史 □ パソコンの歴史
1972年:
○インテル8ビットマイクロプロセッサ8008を発表
1973年:
○インテル8ビットマイクロプロセッサ8080を発表
1974年:
○日本電気が8ビットマイクロプロセッサ「μCOM-8」と16ビットマイクロプロセッサ「μCOM-16」を発表
□MITS社が世界初のマイクロコンピュータ「ALTAIR―8800」発売
(インテルのマイクロプロセッサ8080を搭載し、マイクロプロセッサと周辺部品などの組み立てキットは395ドル、組み立て完成品は650ドルと非常に廉価な価格でした。MITS社はMicro Instrumentation and Telemetry
Systemsの略で1969年に4名で創立。 )
○モトローラ社 8ビットマイクロプロセッサ「M−6800」発売
1975年:
○ザイログ社設立。8ビットマイクロプロセッサ「Z-80」発表。
1976年:
○アップルコンピュータ社設立。
□日本電気 マイクロコンピュータトレーニングキット「TK-80」発売
1977年:
□アップルコンピュータ社からパソコン「Apple U」発表
□タンディラジオショック社パソコン「TRS-80」発表 パソコンに参入
□日本電気 パソコン「TK-80BS」発売 パソコンに参入
1978年:
○インテル社 16ビットマイクロプロセッサ8086発表
□シャープ パソコン「MZ-80K」発売 パソコンに参入
□日立 パソコン「ベーシックマスター・レベルT」発表 パソコンに参入
1979年:
○インテル社 16ビットマイクロプロセッサ8088発表
□日本電気 パソコン「PC-8000」発売
1980年:
□沖電気 パソコン「if800」発売 パソコンに参入
1981年:
□IBM社 パソコン「IBM PC」発売 インテル社のマイクロプロセッサ8088を搭載、パソコンに参入
□三菱電機 パソコン「MULTI 16」発売 パソコンに参入
□富士通 パソコン「FM8」発売 パソコンに参入
□松下電器 パソコン「JR100」発売 パソコンに参入
そうして、現在のパソコン全盛期に至るのです。
当初はマイクロプロセッサを使用したマイクロコンピュータ(マイコン)と呼ばれていましたが、計算機の方はやがてパーソナルコンピュータ(パソコン)と呼ばれるようになりました。
図45はアップルパソコンの初期の広告です。
1979年頃の雑誌広告で、写真にはアップルUの一部と、机の上に当時は標準的だった5インチのフロッピーデスクが写っています。
図45:アップルパソコンの1979年の雑誌広告
図46:アップルパソコンの広告入りメータースタンプ 1987年オランダ
アップルのロゴとかなり異なる図案である。
図47:Steve Jobs,
owner of Apple
マイクロプロセッサを内蔵していろいろな動作を行わせるコンピュータではない家庭電器製品の場合は、「マイコン内臓」という用語が使用されています。
パソコンはこのように電卓用のマイクロプロセッサからの流れで、ミニコン(主に制御用に使用されている小型のコンピュータ、1965年アメリカのデジタル・イクイップメント社のPDP-8にこの名を最初に命名しました)、ワークステーション(ネットワーク端末としての機能だけではなく、さまざまな処理を行うことが出来る事務処理や科学技術計算処理のためのコンピュータ)と呼ばれるものは、第1、第2、第3世代といった大型電子計算機の流れを踏襲しています。
同じようにOA作業に使用されているコンピュータの仲間ですが、その育ちは微妙に異なります。
(3) パソコンショウの始まり
マイコン(パソコン)が盛んになると展示会も開催されるようになってきました。
日本では(社)電子工業振興協会(現在は改組されて社団法人 電子情報技術産業協会)のマイクロプロセッサ委員会を母体とし、マイコンの発展と底辺の普及のために、マイクロプロセッサ(MPU,CPU)、マイクロコンピュータ(マイコン)、周辺機器及び応用機器を展示実演する専門的な展示会として、マイクロコンピュータショウが開催され始めました。
その第1回は1977年5月に東京で開催され、36社の展示で、約36,000名の入場者がありました。
その後毎年開催されるようになりました。
図48 第3回目のマイクロコンピュータショウ‘79の招待状の表紙
11. 宇宙開発でもコンピュータが利用され始める
宇宙開発に際してもコンピュータは利用されてきました。
有人宇宙船に搭載されるコンピュータ(On Board Computer)は、発達の早いコンピュータの世界にあっては、かなり旧型のものが搭載されています。
宇宙開発は計画の段階から宇宙空間で発生しうるさまざまな厳しい条件をクリアすることが搭載機器に要求されます。
数年もかけて機器の試験を行い、宇宙に向けてカウントダウンされるときには、搭載されているコンピュータはかなり旧型に成り下がってしまっています。
アメリカの人工衛星で最初にコンピュータを搭載したのは、1964年5月28日に打ち上げられたサターンロケットSA-6です。
それまでは全て地上のコンピュータが計算を行い、飛行中の人工衛星に通信で指示を与えていました。
この搭載コンピュータはIBM社が開発を担当したもので、重さは99ポンド(約45kg)でした。
この搭載コンピュータの働きもあって、打ち上げたロケットから人工衛星の発射や、月着陸を目指すアポロ計画の予備的な試験などに成功しました。
1965年6月にアメリカが打ち上げた有人宇宙船ジェミニ4号にもIBM製の搭載コンピュータが採用されました。
引き続き1965年12月に打ち上げられたジェミニ6号と7号は、初の宇宙空間でのドッキングに成功しましたが、このジェミニ衛星にも重さ59ポンド(約27kg)のIBM製搭載コンピュータが採用されていました。
2機の距離のレーダ測定結果を搭載コンピュータで処理をして、うまくドッキングに成功しました。
このように、宇宙開発でもコンピュータは利用され始めました。
図49 ジェミニ4号衛星と宇宙遊泳を行っている宇宙飛行士
その後のアポロ衛星の月着陸成功を経て、スペースシャトル計画の時代になると、宇宙飛行士がノートパソコンを使用して、宇宙船内における実験などのデータ処理や記録を行うようにました。
アメリカNASAは多数のスペースシャトルを打ち上げています。
その中のSTS-29号は1989年3月13日にフロリダ州ケープケネディから打ち上げられました。
5名の宇宙飛行士が乗り込み、3月18日に帰還しています。
この宇宙飛行で、図50ある写真に見えるように宇宙飛行士バジィアン(J. P. Bagian)は医学実験データをラップトップパソコンに入力しています。
図50:スペースシャトルSTS29号の中でラップトップパソコン(ノートパソコン)を使用している宇宙飛行士
12.コンピュータと通信
(1) 電話回線で高速デジタル信号を送信する
それまでの通信回線は電話での利用を主体としたものであり、アナログ電気信号と呼ばれる小さい声は小さい電気信号に、大きい声は大きい電気信号に直接変換し、それをそのまま出来るだけ形を崩さないように注意して電送する方式でした。
それでも電送の途中で信号が変性しやすい傾向にありました。
また、「電話の声」といわれるように、電話回線で送られる声は、人が発する声の周波数の中で主要な一部だけを送信しています。
高い周波数や低い音はカットされているので、実際の声と少し異なる「電話声」となるのです。
こうした伝送周波数帯域が制限されている電話回線を利用して、電話の声の周波数より高いデジタル電気信号と呼ばれる高速電気信号を電話回線で送ることは、一工夫が必要でした。
デジタル電気信号は0と1の組み合わせで、単純な信号にしてあるので電送による信号の変性は少ないのですが、使用する周波数帯域が広くなるという性質を持っていました。
したがって、コンピュータの信号をそのままでは電話回線に接続することはできませんでした。
コンピュータと電話回線を接続するために、モデムと呼ばれるコンピュータのデジタル信号を電話回線に合わせたアナログ信号に変換する変調を行い、また電話回線で送られてきたアナログ信号を基のデジタル信号に戻す復調ということを行う機械が開発されました。
またデジタル信号伝送のための専用通信回線が装備されるようになりました。
(2) オンラインはコンピュータと通信の融合から生れた
コンピュータ抜きでは昨今の生活は成り立たなくなっています。
しかし、コンピュータの存在をさほど意識はしていません。
銀行の預金通帳に書き込まれた文字もコンピュータで打ち出されたものです。
コンピュータが社会で広い分野で使用されるようになった背景は、これまでに述べて来たようにコンピュータの発展そのものもあり、機能や能力の増強とコストの低減、生産台数の増加という側面もありますが、同時に、通信回線を利用して、遠隔地からでもコンピュータを利用できるデータ通信システムの開発は見逃してはならない事象です。
コンピュータの発達と、データ通信技術の融合によって、コンピュータがそれまでに「計算」処理主体から脱却して、新しい可能性が生まれました。その一つの利用形態がオンラインシステムです。
オンラインシステムは、中央にあるホストコンピュータ(コラム参照)を通信回線で接続し、遠隔地にある端末装置でデータなどの入出力が出来るものです。
例えばデータベース(コラム参照)に接続して必要な情報を端末装置から取り出すことができます。
さらに一歩進めばホストコンピュータで即座に(リアルタイムで)処理を行い、その結果が端末装置に表示されるもの、例えば列車座席予約における切符の発券作業などがあります。
コラム
ホストコンピュータ:
複数のコンピュータで構成されているシステムがあるとき、処理の中心となるコンピュータをホストコンピュータといいます。オンラインシステムやパソコン通信では中央にあって、各端末装置からデータを受け取り、集中的に管理運営をつかさどるコンピュータのことをいいます。
データベース Database(DB):
多目的な利用を前提として集約された情報の集まり、それらのファイルのことです。例えば医学薬品データベースといえば、いろいろな関連する情報が集積されており、必要に応じて必要な情報を取り出すことができます。
(3) 国鉄の座席予約システム
早くから旅客輸送における座席予約システムの中にオンライン化を採用したものに国鉄(現在のJRグループ)の遠隔即時処理方式マルス(MARS: Magnetic Electric
Automatic Seat Reservation System)があります。
マルスは1960年に端末装置12台、収容座席数2,300席で試行的にスタートしました。
1964年10月にはマルス101として、全国の主要駅と交通公社(当時国鉄は交通公社の主要な株主)にみどりの窓口を開設し、本格的に稼働し始めました。
国鉄のセンターコンピュータ(コンピュータは日立製作所のHITAC3030、このシステムは国鉄と日立製作所の共同開発と言える)で一元管理されて、端末からの操作で指定券は1分程度で発行できるようになりました。
1970年には端末装置1,021台、収容座席数は40万席と大幅に増加し、ほとんどがコンピュータで処理されるようになりました。
図51:国鉄のマルス 「国鉄首都圏ニュース 1973年3号」より
(4) 銀行のオンライン化
1973年に内国為替(外国為替に対する用語で、国内為替のこと)取引を目的に、都銀と地銀87行で「全国銀行データ通信システム」として運用が始まりました。
また、全国約700にのぼる大手と中小金融機関の間の為替交換を行う「全国銀行データ通信第2次システム」は1979年4月に発足しました。
この2次システムでは参加行数が8倍に増加し、また新機能も付加されたので、従来の5倍の計算能力を持つものとして電電公社(現在のNTT)のコンピュータDIPS-Uモデル30が採用されました。
銀行の自動支払機(ATM: Automatic Teller Machine)は1939年アメリカの発明家シムジィアン(Luther G. Simjian 1905- トルコ生まれのアメリカの発明家)によって、自動コイン両替機として発明されました。
銀行のオンライン化に合わせて、カード1枚で現金が引き出せる自動支払機などの改良されたATM機が使用されるようになりました。
日本ではこれらのATM機は立石電機(株)や富士通(株)によって製造されるようになり、富士通の場合は、現在のCD機(Cash Dispenser:自動支払機)の機能をもつものが1972年に製造開始しています。
この当時のATM機には、現在のように紙幣の鑑札機能はなく、自動預金機能もありませんでした。
図52は、富士通が始めて紙幣鑑別機能を備えて、預金の入金もできるタイプとして製造したATM機FACT-2を、館林工場で自動化ロボットを使って製品の操作性を評価している場面です。
図52 富士通(株)工場のATM製造
*紙幣と同じ大きさにしてATMで切手を販売
銀行で多数のATM機が用いられるようになると、アメリカではこのATM機械で現金の預金入金や現金払い出しの機能に加えて、郵便切手も販売し始めました。
アメリカで1989年から始まったこのサービスのために、アメリカ郵政庁では、図53あるようにドル札の大きさと全く同じサイズに郵便切手のシートを製造しています。
図53 ATM販売用アメリカの郵便切手シートとアメリカ1ドル紙幣
(5) 郵便貯金のオンライン化
日本の郵便局は大きな貯金を預かっています。
銀行に比べるとオンライン化が遅れていましたが、郵便貯金のオンライン化が始まりました。
全国9ヶ所に計算センタが設けられ、それぞれにホストコンピュータが配置されました。
小樽、仙台、宇都宮、東京、長野、名古屋、大阪、広島、福岡に導入されたコンピュータは電電公社(現在のNTT)のDIPS-11で、各地の貯金業務にあわせてモデル30、モデル20、モデル10の各機種が配置されました。
これら9ヶ所の計算センタ間は9,600ビット/秒の高速回線で結ばれ、各計算センタと郵便局間は1,200ビットおよび200ビット/秒の通信回線で結ばれました。
この第1ステップとしてサービスを稼働し始めたのが、1978年8月1日に始まった東京計算センタと神奈川県下の鎌倉郵便局、藤沢郵便局、茅ヶ崎郵便局、藤沢藤ガ岡郵便局など計13の郵便局でした。
図54はこのオンライン化を知らせるチラシです。
継続して全国の郵便局がオンライン化されていきました。
郵便貯金の全国ネットワークが完成したのは1984年3月でした。
図55は郵政省貯金局がスポンサーとなって、全国19,000局を結ぶオンラインネットワークの完成を告知する目的で発行した広告付き郵便葉書です。
図54 藤沢藤が岡郵便局の郵便貯金オンライン化開始を知らせる1978年のチラシ
図55 1984年全国郵便局オンラインネットワーク完成
13. 電子郵便の始まりと、通信および情報の融合・競合
(1) コンピュータの発達と郵便
コンピュータが発達し、それらが相互に通信回線で結ばれるようになると、コンピュータは単に計数機や業務に関連したデータの処理に留まらず、一つの情報通信のメディアとして活躍するようになってきました。
通信衛星を利用したコンピュータ郵便がアメリカでは1974年に始まっているのです。
(2) 日本のコンピュータ郵便
日本でのコンピュータ郵便は1980年6月から東京の日本橋郵便局と大阪中央郵便局で始まりました。
大量の郵便物を、コンピュ-タを利用して印刷し、封筒に挿入し、宛名を印刷して、発送するという一括作業を郵便局で受け付けるというサービスです。
利用者は郵便局に磁気テープやフロッピーデスクなどの電子媒体で、文書や発送先のリストを持ち込めば済むのでダイレクトメールの発送等に利用されました。
図56は1981年5月に日本橋郵便局から発送されたコンピュータ郵便の例です。
右上に「コンピュータ郵便 日本橋郵便局」のマークが印刷されています。
通常では郵便局が準備した専用封筒に入れられますが、この例ではダイレクトメールの効果をさらに高めるために発送した新日本トラベルが独自の封筒を準備したものです。
図56 コンピュータ郵便
(3) 日本の電子郵便
日本の電子郵便は1981年7月に東京中央郵便局、名古屋中央郵便局と大阪中央郵便局でサービスが始まりました。
配達区域はそれぞれ23区内、名古屋、大阪市内でした。その後は全国サービスが可能になりました。
電子郵便は受付郵便局で専用の用紙に文字だけではなく絵なども書き込むことができ、それをファックス専用回線で配達郵便局へ電送します。
配達郵便局では速達扱いで配達するもので、午後1時頃まで受け付けると、電子郵便はその日のうちに配達されました。
速達扱いということから、A4サイズ1枚の手紙の場合は500円、A4サイズ2枚分の手紙になると800円でした。
この電子郵便は、慶弔扱いもできて、慶弔電報と競合するサービスでした。
電子郵便という郵便が電気通信的な手段を採用し、郵便と電信(電報)が競合するという時代になりました。
1981年当時の文字だけの電報料金は、1976年に電報料金が改正されており、25語までの基本料金が300円でした。
郵便は、基本的に書いたり、判を押したりした書類などの実物を相手に送達することができるという特徴を持っています。
いかに通信手段が発達して、情報や複写した物が送信可能であっても、現物の送達は郵便の役割として残ります。
言い換えれば、情報として相手に伝えることで済むことは電気通信の分野の業務となるでしょう。
そう言いながらも、前述のように電子郵便やコンピュータ郵便といった形態で、郵便と通信はある分野では融合しています。
郵便と電気通信のそれぞれの長い歴史はお互いに独立したものでしたが、コンピュータの発達という局面を迎えて、融合と競合が始まっています。
図58;電子郵便はファクシミリリ利用の郵便(郵便局パンフレットより
(4)日本のパソコン通信からのコンピュータ郵便
PCVANではコンピュータ郵便を行っていました。
1996年1月からは個人ユーザが自宅のパソコンからパソコン通信機能を利用して、このコンピュータ郵便が利用できるようになりました。
同報サービスが可能なので、ちょっとしたパーティなどの案内の発送には便利になりました。
郵便を取り扱う郵政省とパソコン通信を取り扱っている日本電気のPCVANとが始めたもので、自宅のパソコンからPCVANに接続し、必要な文書や郵送先の住所などを送信すると、郵便局で印字し、封筒に入れて、発送してくれるというサービスでした。
郵便料金はA4サイズの用紙に、通信文が1枚のときは101円、通信文が2枚のときは106円で、さらにPCVANの利用料金が必要でした。
封筒と便箋を自前で用意して80円の郵便料金を払うことを考えると、さほど高い料金ではありません。
図57はこのサービス開始日に差し出された例です。
図57: PCVANからのコンピュータ郵便の実例
以下はこのサービスを開始に関連する情報です。
古いパソコン通信のログに残っていました。
******************
切手クラブ(収集家交流)
(KITTE)
*** コミュニケーション ****
番号 登録日付 タイトル 総数: 1297
#868/879 コミュニケーション
★タイトル (ATF89206)
1996/ 1/31 6:13 (6)
きょうから、「コンピュータ郵便」サービスを開始 ウォークマン
★内容
PC-VANから文面を書き込むと、郵便局でそのデータを受け取り、通常の紙の手紙にして配達してくれるというもの。
料金は、A4サイズで1枚101円、2枚で106円で、2枚までしか受け付けていない。
**********************
私のパソコンの古いログに、以下の情報が残っていました。
19960706のログ
*********************
===PC−VAN===
(MAIN)
コンピュータ郵便サービス
(ECOM)
1.サービスのご案内
2.サービスの申し込み(¥)
E.コーナー終了
番号またはコマンド(H,Q,E,J)=1
9690000001 サービスのご案内
番号 枚数 タイトル 総数:4
1 3 コンピュータ郵便(ECOM)サービスについて
2 1 利用料金のご案内
3 1 通信文(自由文)の1枚に書くことの出来る文字数
4 10 申し込みの流れ
番号またはコマンド(M,S,F,H,Q,RBn,TLn,KW,KWL,DSn,RT,DLn,J)=1
#1 コンピュータ郵便(ECOM)サービスについて
コンピュータ郵便(ECOM)サービスについて
コンピュータ郵便(ECOM)サービスは、パソコン通信を利用して簡便にオフィス・自宅等から電子メールと同様に通信文(自由文)を入力し、それを郵便局側で官製用紙に印字し、封入まで行い発送致します。
1.サービス概要
宛 先 :複数(99通)指定可能
用 紙 :A4版・縦サイズ
文 書 :通信文(自由文)
文字方向 :横書き
書 体 :明朝体
通信文枚数:入力する通信文の行数により異なりますが、入力行数が43行を超えた場合は、通信文枚数は2枚となります。
料 金 :正常に受付られたものに関して、PC−VANの利用料金として一緒に計算します。
発送日 :申し込み日時により、郵便局からの発送日が異なります。
1)平日(月〜土)
0時〜 8時 : 当日発送
2)平日(月〜金)
8時〜24時
: 翌日発送
3)休日(日曜・祝日)
0時〜24時
: 翌日発送
4)休(日曜・祝日)前日 8時〜24時 : 休日明けの発送
2.サービス提供者 郵政省
*注意事項*
申し込みされたコンピュータ郵便の記載事項に不備がある場合(該当住所がない等、取扱郵便局からお客様へ問い合わせの電話がある場合があります。
なお、本サービスはクレジットカード会員の方、及び法人(銀行振込)の会員の方に限らせていただきます。
#2 利用料金のご案内
利用料金のご案内
コンピュータ郵便サービスの利用料金は、PC−VANの利用料金と一緒に計算します。
料金
1)通信文1枚構成・1通(1宛先):110円
2)通信文2枚構成・1通(1宛先):120円
#3 通信文(自由文)の1枚に書くことの出来る文字数通信文(自由文)の1枚に書くことの出来る文字数
1.通信文1枚目・A4縦サイズ・横書き
1)入力可能文字数 : 39文字/行
2)最大行数 : 43行/枚
2.通信文2枚目・A4縦サイズ・横書き
1)入力可能文字数 : 39文字/行
2)最大行数 : 61行/枚
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当時、それなりの頻度でこのサービスを利用しました。
それ故でしょうか、事務局より、以下のメールが届いています。
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電子メール
(MAIL)
#17261827
96/03/06
14:55:15
発信者:PCVPRESS PCVPRESS
受信者:ZRN53690 三浦 正悦
文書名:コンピュータ郵便サービスについて
BC:INET#yoshida@inp.recruit.co.jp
平素、PC−VANをご利用いただき、誠にありがとうございます。
突然のメールで失礼致します。
PC−VANでは、1月31日からコンピュータ郵便サービス(J ECOM)を開始させていただきましたが、いかがご利用いただいていらっしゃいますか?
お客様の利用実績を拝見させていただきましたところ、2月によくご利用いただいていらっしゃいましたので、その利用方法(用途)、効果、裏話などがおありでしたら、ぜひお聞かせいただきたいと思います。
PC−VANの今後の販売促進活動に役立たせれば、と思います。
もし可能でしたら、新聞記事等にも取り上げていただくことを検討中です。
お忙しいところ、誠に恐縮ですが、ご協力いただきますようお願い致します。
NEC PC-VANサービス販売本部 販売促進グループ 深澤
PC-VAN ID:PCVPRESS
TEL:03-3798-6836 FAX:03-3798-9170
LOG OUT DATE 96/03/08 TIME 22:55:43
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14. パソコン通信の始まり
*BBSの時代
パソコンが普及し始めた1970年代の後半に、お互いのパソコン間で通信を行うことが始まりました。
1977年アメリカのクリステンセン(Ward Christensen)とスース(Randy Suess)によって始められたコンピュータ掲示板(CBBS: Chicago Bulletin Board System)というサービスです。
発祥の地の名前を付けてシカゴ掲示板システムと呼ばれますが、Computer Bulletin Board
System(コンピュータ掲示板システム)です。
パソコンと一般の公衆電話回線を接続する通信プロトコール(コンピュータ同士で通信を行うときに、どのような速度で、どのような信号形式で信号の授受を行うか、約束を決めた規則のこと)としてXモデム(XMODEM)を考案しました。
この共通して使用する通信プロトコールを利用して、複数のパソコンユーザ相互間のコミュニケーションが実現しました。
公衆掲示板と呼ばれる所にメッセージを書き込んだり、他の人のメッセージを読んだり、また電子メール機能も持つ通信媒体となりました。
CBBSは単にBBSとも呼ばれるようになり、以降3年で1,000局以上のBBSが誕生しました。
それらのほとんどが地域的な少数ユーザを対象としたネットワークでしたが、全米に広がっていきました。
こうした盛んなパソコンユーザ間の相互通信をみて、ビジネスとして始まったのが1979年の「THE SOURCE」です。
自宅でパソコンを楽しむユーザを対象とした初のオンラインサービス企業で、多数のテーマ別電子会議室(いろいろな意見を書いたり、読んだりすることができる)システムを持ち、電子メールも可能で、ショッピングやソフトウエアのサービスもあり、ニュースや情報の提供から各種データベースもカバーしていました。
しかし、経営的には不振で、後年に後発のコンピュサーブ社に吸収されてしまいました。
(2) パソコン通信の普及
類似の個人向けオンライン情報サービスを始めたのがコンピュサーブ社(CompuServe:1969年に企業向けコンピュータサービス会社として設立)で、1980年6月に全米をカバーするサービスを開始しました。このコンピュサーブ社は現在もオンラインサービスを提供しています。
図59 コンピュサーブアクセスガイドの表紙
日本では1982年にMac
Event(最初は特定の名前の無いBBSとしてスタート)というローカルなBBS局が開設され、最新のMac(アップル社のマッキントッシュパソコンのことで、Macと略します。Macは1984年の発表)情報やPDS((Public Domain Software):著作権が放棄されたソフトウエアのこと。誰でも自由に配布したり、使用したりすることができる)交換で人気があり、1,200名と多数の会員を持っていました。
1985年に電気通信事業法が改正されて、電気通信は「解放」され、いろいろなサービスが可能になりました。
日本電気(株)(NEC)は、1985年4月に「特別第二種電気通信事業者」として登録し、通信サービスも行うようになりました。
オンラインパソコン通信 PC-VAN の運用開始は有料化された1987年3月になっていますが、その前からの試行的な無料サービスは1986年2月、ハレー彗星の人気に合わせた「NECハレー彗星情報サービス (PC-VAN)」として開始しています。
続いて富士通系のNifty-Serveが1987年4月に開局しました。
先行のPC-VANに追いつき追い越すのが大きな仕事でした。
これらのパソコン通信の場合は、中心に専用のホストコンピュータが配置されて管理され、会員はそのホストコンピュータに電話回線で接続するという形式でした。
こうしたBBS、パソコン通信は文字(テキスト)を主体とした通信でした。
これらの通信媒体はインターネットの普及につれて、インターネット対応を計るようになっていきました。
図60:パソコンを操作しながらハレー彗星を観測
15. インターネットの時代到来
(1) インターネットの始まりは
インターネットは、1969年にアメリカ国防省のARPA(Advanced
Research Project Agency, 高等研究計画局)のARPNETという通信網が、4つの大学や研究機関のそれぞれのホストコンピュータを50kbit/sの専用通信回線で相互接続して開通したネットワークが始まりとされます。
最初のAPRNETの構築先:
第T接続点:UCLA(University of California at Los Angeles) カリフォルニア大学ロスアンゼルス校
第2接続点: SRI (Stanford Research
Institute) スタンフォード研究所
第3接続点:UCSB (University of
California at Santa Barbara) カリフォルニア大学サンタバーバラ校
第4接続点: UU
(University of Utah) ユタ大学
このネットワークが大学や研究機関の学術ネットとして発達していきました。
1980年代の後半に全米科学会議(NSF)が引き継いだネットワークNSFNETには大学や研究機関だけではなく、民間会社の研究機関も参加していました。
このネットトワークに接続されたホストコンピュータの数は、1984年には1,000台を超え、1989年には100,000台を超えました。
もっぱら電子メールや電子掲示板、ファイル転送、遠隔地からのホストコンピュータへの接続などに使用され、研究者にとっては便利な道具でした。
このネットワークは商業的な利用が禁じられていたので、パソコン通信が発達した1980年代においても、一般には無縁で、学術用途に限定されていました。
1995年にNSFNETは運用を停止し、コンピュータ相互の接続は商業的に事業を行うプロバイダに全面的に依存するようになりました。
(2) インターネットの普及
グラフィックスをサポートしたWWW(World Wide Web)ブラウザソフトウエアMosaicが1993年に開発されて、WWWにより簡単に情報が引き出せるようになってから初めてインターネットが学術研究者や専門家以外に爆発的に広まっていきました。
つまり、グラフィカルで分かりやすいユーザインターフェスやネットワークに接続されて、例えば海外のコンピュータと接続されているという意識をほとんど感じないで、紙メディア(紙に印刷した新聞や雑誌などの情報媒体)よりも簡単に大量な情報源にアクセスでき、画像や音声情報も取り出すことができるという特徴が、広く受け入れられたのです。
ダイヤル即時通話で国際電話をかけるよりも簡単に海外の情報源にアクセスでき、海外の情報源となるパソコンやサーバーに接続されているという意識がほとんどない状態で利用できるようになりました。
そしていまやこのインターネットは全盛期を迎えています。
このインターネットの場合は、パソコン通信とは異なり、中心となるコンピュータや管理者は存在しません。
お互いのコンピュータが接続し合っているということです。
WEBには蜘蛛の巣、蜘蛛の巣状のものという意味があります。
コラム インターネット関連の用語
WWW:
World Wide Webの略ですが、うまい日本語訳は存在しません。インターネット上に存在する情報が蜘蛛の巣状(Web)に世界中に張り巡らされ、お互いに結びつきあい、巨大な情報の空間を作り出そうというものです。
ユーザはネットワーク(情報通信網)上を渡り歩いて、情報源間のリンク(接続)をたどり、情報空間をさまよい歩くことができます。
こうして得られる情報は、あくまで誰かが好意で公開している情報に限られるし、恣意的な情報も流すことができるので、盤石ではありません。
ブラウザ
WWWを利用するためのソフトウエアのことです。
インターネットInternet
異なる種類のネットワークやコンピュータネットワークを相互接続するための標準規格のこと。
企業の中で閉じられて外部からは参加することが出来ないネットワークをイントラネットといいます。
アクセス Access
接続するという意味です。
この場合は情報源として保存されているコンピュータに入り込んで、画像やデータなどを見ることができることを意味します。
一般公開されていないコンピュータ上の情報を見る権利をアクセス権といいます。
パソコン通信などの場合は、個人のパソコンからホストコンピュータに接続することをアクセスといいます。
図61 パソコン通信の場合のネットワーク
図62 インターネットの場合のネットワーク
16. 電子メール
電子メールはアメリカのコンピュータ技術者トムリンソン(Ray Tomlinsonアメリカのコンピュータ技術者)が発明しました。
トムリンソンはARPNETのコンピュータ運営に携わっていたBBN社(Bolt Beraneck and Neuman)社に入社し、1971年にコンピュータ内電子メールプログラムと、試験的なファイル転送プログラムを発明し、1972年にそれらを公開しました。
電子的な手段で送受信した手紙が電子メール(E Mail)で、広い意味ではファクシミリも電子的に送受信されているのですが、一般的には狭義で、パソコン通信サービスや大型コンピュータにネットワーク接続された端末装置間でやり取りを行う文書のことです。
郵便と同じで、特定のパソコンに対し送信し、または特定のユーザに対してのみそれらの文書が読めるようになっています。
図63は1982年5月に開催されたビジネスショウで、ユニバック社のブースで展示実演を行いながら配布していたカタログです。
オフィスコンピュータを利用し、日本語の漢字を使用した社内や支店間の文書の電子メールを可能にしたシステムを提案していました。
昨今では、この電子メールはネットワーク接続されたコンピュータやインターネットにおいて、電子メールなしに仕事が出来ないほどに普及しています。
電子メールアドレスの区切りに使用する@マークもトムリンソンが選択した記号です。
筆者の電子メールアドレスVYJ01354@nifty.ne.jpの中にもこのアットマークが入っています。
図63:1982年のユニバック社の電子メールの提案
17. インターネット利用の無料郵便葉書
インターネットの時代の到来で、さまざまなビジネスがインターネット上で行われ始めています。
企業の広告宣伝媒体として有効であるとし、そうした広告収入を原資として各種無料サービスも行われています。
経済の好不況によって広告収入が大きく変動するので、そうしたビジネスは必ずしも成功をおさめているとはいえない側面もあります。
前述の、自宅のパソコンからパソコン通信網を利用して郵便を出すシステムが始まったと説明しました。
このコンピュータ郵便は有料でした。
21世紀に入った2001年3月からは、インターネットから無料で郵便葉書が差し出せるサービスが始まりました。
その例を図64に示します。
2001年6月の使用例で、表面下部と裏面の40%が広告で占められています。
ポストコミュニケーション(株)が運営しているインタネットサービスで、個人間の私的な通信に限定されています。
郵便葉書にはスポンサーからの広告が付いて来ますが。郵便料金はこのスポンサーの広告料で賄われています。
企業から大量に発送されても開封もされずにゴミ箱に入れられる可能性のあるダイレクトメールに比べると、確実に受取人にみてもらえる広告となるので、利用者にとっても、スポンサーにとっても面白いサービスです。
こうしたサービスの登場を見れば、ついに情報伝達の利用料金は無料になった、といえます。
遠くに働きに行っている父親からの郵便を、郵便料金が受取人払いでかつ高額であったために受け取ることができなかった子供のケースをみて、イギリスのローランド・ヒルは郵便制度の改革や近代化の必要性を感じ、全国均一で廉価な代金で1840年に近代郵便制度を発足させました。それから160年の後、一部ですが無料の郵便が始まりました。
図64:無料郵便葉書ポスコミの例
追記;ホスコミの無料郵便葉書サービスは、残念ながら長続きしなかった。