*松代に佐久間象山を訪ねて

 

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2006
88日と9日は長野へ出かけました。飯綱高原で12日のある委員会活動の合宿でした。
9
日の昼食後に解散となりましたので、松代に行ってみました。
8
8日は台風が来ており、9日は東海・関東そして長野も台風に襲われるかも知れないと、会議をしながら心配していました。
しかし、9日の朝になってみたら、関東の南岸は暴風雨ではなく、強風・大雨程度の気象条件になり、台風の襲来は避けることができました。
その代わり、長野では通常30度程度の気温が33度と非常に暑い気温になってしまいました。

 

図1:長野電話局松代分室発行のパンフレット

 

私の本「おもしろ電気通信史」の中には、佐久間象山の電信実験に関しても記述しています。

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年以上前に(昭和47年の夏)一度松代を訪問し、電信実験の鐘楼などを見てきました。
この89日は2回目の松代訪問です。

昭和47年に入手したパンフレットを図1に示します。当時の松代郵便局の電信発祥の地を描く風景印を押印したものです。今回の訪問で、この松代分室も建物は残っていましたが、閉鎖されていました。

当然ながら最初に向かったのは電信の実験が行われた鐘楼です。
この鐘楼は旧松代藩の鐘楼で、真田昌幸が1624年に設けたもので、1刻(約2時間)毎に時をつげたと云われます。

佐久間象山は嘉永2年(1849年)、ペリーがアメリカからモールス電信機を日本に運んでくる前に、この鐘楼と約70m離れた御使者屋との間に絹巻電線(逓信総合博物館に現存、日本最古の電線とされる)を張り、電気通信の実験を行っています。

電信機はオランダのショメール百科事典をもとに象山が自作したもので、モールスのトントンツーの電鍵ではなく、指示電信機であった思われます。象山は電信実験に際し、「サクマシュリ」という自分の名前を送ったとされます。日本電信発祥の地として保存されている。

2に鐘楼の前にあった観光案内パネルの中の、電信実験に関する部分を示します。
この鐘楼はNTT松代局の隣にあります。
3は鐘楼に隣接して立てられている電信発祥の地の記念碑です。
4は鐘楼です。
5には鐘楼の前にある公衆電話です。日本最初の電信の跡と現在の電話の対比です。

 図2 観光案内パネル

 

 図3 電信発祥の地の碑

 

 図4 鐘楼 

 

現在、NTT松代局は閉鎖されています。
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年前は図3、図4に示す鐘楼も発祥の記念碑も敷地内に入ってみることができました。
でも今は敷地内に入ることはできません。
5に示すように道路との間にある鉄の柵越しに、鐘楼を眺めるだけです。
でも、今回の訪問時は偶然にも測量などのために測量士がいて、門が開き、中に入ることができました。
昔は鐘楼にも登れたのですが、今は上ることができません、鐘楼の上り口に鍵がかかっていました。
なんらかの形でこの鐘楼を公開して欲しいものです。

 図5 鐘楼の前の公衆電話 新旧の対比


次は佐久間象山の墓です。蓮乗寺に行きました。
正面に堂々と「佐久間象山先生菩提所」と案内があります(図6)。
象山の墓は正門を入って右手にありました。図7はその説明プレートです。図8は象山のお墓です。
この寺は日蓮宗のお寺で、佐久間家の菩提寺です。
京都の妙心寺から分葬された佐久間象山の墓だけではなく次男恪二郎の墓もあります。
恪二郎は象山とお菊との間に生まれた子供で、象山の死後、父象山の敵を討つため、新選組に席をおいたりしたそうです。

 図6 蓮乗寺 正門  

 

 図7 象山の墓の説明

 図8 象山の墓

 

切手の収集家の性です、松代郵便局に立ち寄りました。葉書を買って風景印を押してもらいました。
押印している間、しばしの休憩です。
外は暑いので、クーラのきいた郵便局のロビーで一休みです。押印が終わって受けとりました(図9)。
今は真田の6文銭と文武学校が描かれていますが、かつてはこの風景印には電信の碑としての鐘楼が描かれていました(図1に古い風景印を示す)。図案の改正があり、残念です。

かなり前にふるさと絵葉書として松代版が発売されました。
局員にもしかしてまだ残っていない?と聞いてみましたが、だめでした。全て売切れです、とのことでした。

帰宅後に手元にあるこのふるさと絵葉書を取り出してみると(図10に示す)平成111999年の発行でした。

郵便局から象山記念館に向かいました。
11に示すように市内には案内標識があり、一人で、地図を見ながら、歩いて見て回ることができます。

  図9 松代郵便局の風景印  

 

 図10 1999年発行 ふるさと葉書の1枚 

 

 図10 市内の道案内標識


象山記念館に到着しました。図12はその建物の全景です。
記念館は佐久間象山没後100年祭を機に地元の有志を中心に計画が進められ、昭和40年に施設が完成。
昭和42年に長野市に寄贈され、同年4月に開館となった記念館です。
遺品や愛用品の展示の他、象山の功績をアニメで紹介するビデオコーナもあり、普段なかなか見られない象山の側面を覗くことができます。

13は象山記念館の正面玄関にある案内プレートです。
象山の肖像で記念館であることがわかりますが、そばに古い電話機が描かれています。
この象山記念館では象山の幕末の武士としての活動に関する展示を行っていますが、2階の展示フロアには佐久間象山が電信実験を行ったことにちなんで「電気通信の歴史」の展示コーナになっているのです。

一般的な通信の歴史を語る展示品ですが、2階のフロアには関心の深い本がありました。
薩摩藩が幕末に発行した「遠西奇器術」という本です(図14)。
この本には電信器に関する説明が書かれています。
ケースの外から眺めるだけではなく、手にとって当該のページを読んでみたいと思いました。

 図12 象山記念館 

 

 図13 象山記念館の案内

 

 図14 遠西奇器術の電信器のページ

 

 図15 象山作と伝えられる電気治療器

 

この象山記念館には、佐久間象山作と伝えられる(文献などには記録はない)電気治療器がありました(図15)。
佐久間象山は電気治療器を作ったことは確かで、その効用(コレラの治療)、構造に関して記述した手紙が残っています。
今回の訪問時に購入した真田宝物館・象山記念館2004年発行「佐久間象山の世界」という本には、
この電気治療器に関する象山の手紙の写真もあります。
ルーペで拡大してこの写真を見ると、治療器のことを本のテキストでは「セスコックマシネ」と記述していますが、象山は手紙の中でカタカナ表記「ヌスコックマシネ」と記述していると判読できます。
機器の名称を、オランダ語をカタカナ書きで表記しています。

象山が電信実験を行ったとき、電信をどのように表記したのか、関心があります。
電信という用語は明治以降の用語であり、それ以前は伝信であり、象山はオランダ語からテレグラーフという用語を使用したものと思われますが、カタカナでテレグラーフと表記したものか、適当な漢字の当て字を使用したものか、もしくは伝信といった訳語を用いたのか?今回の訪問でも、この点に関して何か展示パネルなどに何か参考になるものがないかと、象山記念館の展示などを見て回りました。

「象山は電信に関して、記録を残していない」というパネル説明があり、結局、不明ということになるのかも知れません。

真田報物館で販売されていた本「佐久間象山の世界」を1冊購入し、長野からの岐路の車中で読みましたが、やはり関連する記述は見つかりませんでした。

かし、電気治療器をカタカナ表記しているので、「テレグラーフ」とカタカナで表記したのかも知れません。
今回の訪問でここまでわかったのですから、収穫といえるかも知れません。

  図16 象山神社 

 

 図17 象山神社の祭神に関する説明

象山記念館からちょっと離れた所に象山神社があります。
象山神社
は佐久間象山を祭神として奉った神社で、佐久間象山没後50年祭を機に計画が進められ、昭和6年に認可、昭和13年に県社として建立されました。
境内には佐久間象山の歌碑や高義亭、煙雨亭などがあります。

16は神社の鳥居です。
この鳥居をくぐってすぐ左手に象山神社の由来、祭神としての佐久間象山の説明があります(図17)。
この説明プレートには象山に「しょうざん」ではなく、「ぞうざん」とルビがふられています。
一般には「さくましょうざん」と呼びますが、地元では「さくまぞうざん」と読んでいます。
神社の名前は「ぞうざんじんじゃ」です。

18象山記念館に入館した時にもらったパンフレットです。
その英名表記を見れば「Zozan」記念館となっています。

佐久間象山の象山は号です。本名は佐久間修理です。
象山神社(佐久間象山の生誕の地)の近くに象山(ぞうざん)という山があります。
佐久間象山は生まれ故郷の山の名前を号にしたのです。
ということから、地元では佐久間ぞうざん、ぞうざん神社、ぞうざん記念館と呼んでいます。
19に象山神社の鳥居の前で撮影した象山を示します。

 図18 象山記念館の案内パンフレット

 

 図19 象山神社の鳥居前から象山を望む

 

象山神社に隣接して象山生誕の地跡が残っています。
20は神社側にあるその案内板です。私は神社側から生誕の地跡に入りました。
21は説明のプレート、図22は説明のプレートの拡大図で、「跡は井戸が残っているだけ」とあります。
その井戸は図23に示します。

説明のプレートの隣に「象山宅跡の記念碑」が立っています(図24)。
象山は2度目の江戸留学となる天保10年(1839年)まで、この地で過ごしました。
父国善が卜伝流剣術の達人で道場を開いていたため、比較的裕福な幼少時代を過ごしたらしい。
しかし、元治元年(1864年)、佐久間象山が京都において凶刃に倒れると佐久間家は断絶となり、ほどなく屋敷も破壊されました。

山神社の境内に建つ高義亭は、象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物で、象山は来客があるとこの2階に招き、応対したといわれています。
蟄居中の象山のもとには中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。
彼らもこの建物で国事を論じたのかも知れません。

また、象山神社の境内に建つ煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、煙雨楼の茶室を移築したものです。
移築保存にあたり、煙雨亭と命名されました。
煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったといわれます。
神社の境内を散策し、本殿を参拝し、社務所で絵葉書を一組購入して、神社を後にしました。

 図20 象山神社内の象山生誕の地入り口 

 

 図21 生誕の地跡の説明

 

 図22 生誕の地の跡の説明プレート拡大 

 

 図23 生誕の地に残る井戸の跡

 

 図24 生誕の記念碑

 

象山神社の後は、真田宝物館に向かいました。
今回の訪問で、象山記念館2階の電気通信関連の展示品の中に、薩摩藩が刊行した「遠西奇器述」があり、電信の図のページを開いて、ケースの中に展示がされていました。
この幕末に書かれた本に、電信を示す用語がどのように表記されているかが、関心です。
テレグラーフとカタカナ書きされている?それとも「伝信機」という日本語に翻訳された漢字で表記されている?それともテレグラーフを適当な当て字の漢字で表記している?それとも何か?象山記念館の受付の方に聞いたのですが、象山記念館には学芸員はおらず、真田宝物館の学芸員が兼務の由。
そこで、学芸員をたずねて、いくことにしました。

象山神社から真田博物館への道は「歴史的道すじ」として、古い城下町のイメージを維持している通りです。
途中、旧文武学校前に「旧白井家表門」があり、無料休憩所となっていました。
観光客に冷たいお茶などのサービスがありました。
ちょっと疲れていたので、一休みをしました。
地元のボランティアの方と、象山はしょうざんだ、ぞうざんだと論議を交わし、観光客にしては松代に詳しいね、と言わせました。

この旧白井家表門は、松代藩士白井家の表門を移築したものです。
文武学校権教授を勤めた白井平左衛門は佐久間象山とも親交があったとのこと。
象山もこの門をくぐったのだろうか。

一息を入れてから、真田博物館に入り、象山記念館にある展示物に関するお願いをしてきました。
これで、松代に入ってから2時間半位の探訪になりました。
長野電鉄の松代駅から電車を乗り継いでJR長野駅に戻るつもりでしたが、疲れて足が痛くなり、動かなくなってきましたので、タクシーでJR長野へ移動しました。

JR
長野駅ではそばを食いながら1時間も休憩を取り(ざるそば一杯で1時間近く粘り)、長野新幹線で岐路につきました。
これで松代へ佐久間象山探訪の記を終わります。
このほかにも佐久間象山にちなむものが残っているかも知れない、見落としたりしたものもあるかも知れない。
それはそれで、次回訪問の楽しみとしてとっておきましょう。

最後に、私のコレクションから、図25に昭和13年の松代郵便局で使用された「象山神社鎮座並びに記念展覧会記念」小型印を示して終わります。
象山は砲術・鉄砲の研究も行ったようです。この小型印には図15に示した電気治療器も描かれています。
26に昭和39年に松代郵便局で使用された「象山100年記念」小型印を示します。

 図24 昭和13年の記念小型印

 

  図25 昭和39年の象山100年記念小型印